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2019-12-28 05:53:00
論と情のバランス《智慧と慈悲》❗️
【論と情のバランス】
仏教の「智慧」をもつと、「こころは[論]に落ち着く」のです。
「無常無我(非我 )空」といった内容です。
ここに徹するための良き方便(善巧方便)は、ひとつには「阿弥陀如来や法蔵菩薩モデルを生きること」といえますが、ここに「情の側面」として「慈悲」が出てきます。
これが「無常無我(非我 )空」ではあるけれど、「相手を理解して、相手の状態に相応しい態度を持って、相応しい言葉や示唆を与える」キリスト教では「愛」といえるような「精神的感応道交の関係」といえます。
ここに「無我(非我 )と無我(非我 )の一如を元にした、論が情から伝わる」という関係性が生まれます。
そこには「なんの駆け引きも損得もない状態が生まれる」のです。
「子どもを亡くした親に、何をいえばいいのか?」という駆け引きのような思いは必要もなく、そういう人にでも「分かりますよといった気持ちで穏やかに接する」だけでいいのでしょう。
以前「神奈川県」で、「電車の踏み切りで立ち往生しているお年寄りを助けて、助けた40才ぐらいの女性が電車にはねられて亡くなったという事故」がありました。
わたしはそのお宅に「なんの意図もなく、友人の発案でお悔やみに伺った」ことがあります。
そのお宅は「異なる宗派」でしたが、「友人の気持ちに誘われて」伺いました。
いきなり伺って見ず知らずではあるけれど、「僧侶として伺いました」といったところ、抵抗感もなく、おうちにあげてくださいました。
その時は「ご両親のお話を、穏やかにありのままの気持ちでお聞きしていました。」
ひとつだけ、ご両親から「娘は成仏していますか?」と聞かれたので、
ふつうに「もちろんです」というと安堵されていたのを、いまこれを書きながら思い出しました。
そこで「わたしは、悲しみを和らげてあげようとか、なにか言ってあげようという思いは全くなかった」のです。
自然体のやりとりでした。
「智慧と慈悲という、論と情のバランス」が自然と取れるようになる。
これが現代の定義による「至高のスピリチュアル」なのだと思うのです‼️
(事故は2013年10月のことでした。)
村田奈津恵さん(40)