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2019-10-02 21:07:00

悲歎。。そして摂取❗️

愚禿悲歎述懐和讃から、親鸞さんが「なに」を歎いているのか?

親鸞は、この和讃において、占いや迷信などを僧侶や法師という立場の者がやっていて、名誉や利益を求めていることを歎いていると思うのです。

 

つまり、「占いや迷信に迷っているひと」自体ではなく、「それを利用して利益を得ようとする《詐欺坊主》を歎き」そのように「不本意な利益で生きることしか選択できない坊主が生まれていること」を歎いている。

 

まじめに「法を説いても聞いてもらえない、生活に困る」という現代においても、同じように「真宗以外」においては、「お守りやお札」を売ったり、「霊能者を演じてみたり」という「本来仏教ではないこと」で生きている僧侶もいる。

 

また、「それができない真宗において」はどうやって生活を成り立たせようかと「悩んでいる」僧侶が多い状況で、なんとなく「先祖供養」をやってるような。。

 

どうしようかという「現代」においては、、

 

改めて「キッチリ法を生きることしかない」と思えるのです。

 

さまざまな事情で「お寺の法要も減って」布教使に渡す「お礼すら今までのように払えない」という事情もあるなかで、「布教使」や「住職のあり方」が問われているなかで、親鸞さんから「悲歎」されないように「法を生きることを本気でまじめに行なう」ことが重要なのであり、、

 

「どうしたら寺が残れるか」なんていう研修をして「なんらかのテクニックを駆使する」のではなく、「地味に利他ることを(たとえば寺の周辺を掃除することだとしても)行動に示すこと」こそが大事であると思うのです。

 

テキトーな教えを説いて、「みなさん一同でお念仏を申しましょう」なんてムリクリ念仏をさせてみたところで、「坊さんの自己満足」で終わり、一般の現代人からすれば「面倒なこと」だと思われることを「強いている」と気づかない「裸の王様」が「坊さん」だと、、

親鸞さんが歎くようなことをしない方がいいと感じています。。

そして最も「カナメ」は、そうだといっても「仮も偽も」摂取のなか。。

 

つまり「そういう状況」を歎いておられても「批判されている」わけではない。

そういう次元にしかおられない人もいるという、究極の「摂取不捨」のなか。。

 

 

という事実です‼️