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2020-09-12 23:59:00

読み手によって文章はより真実を語る!

仏教経典は「どうにでも理解できる」と思われる「記述」が多いため、親鸞は「読み換え」ができたのです。

 

「至心回向」を「至心に回向して」を「至心に回向したまへり」と「至心を回向する」から「至心が回向されている」という主語を「わたし」から「如来」に180度換えられたのです。

 

そこで、より次元の高い解釈が生まれたのです。

 

阿弥陀経に「西方世界有《無量寿仏》。。」とあるこの「無量寿仏は阿弥陀如来かどうか?」という議論がありますが、これも「別とも同じ」ともいえます。

 

キリスト教でも、「聖書」は「神のことば」とするか「あくまでも神のことばを預かった者(預言者)のことば」とするかによって、扱いが変わります。

 

いずれにせよ、どう読むほうが「次元が上がるのか」という観点で解釈すべきであると言えるため、解釈が「正しいかどうか」という読み方よりも「より高次元かどうか」という方が適切な読み方といえます。

2020-09-10 00:49:00

信行両座のミス。。

「信行両座」ってそもそも設定をミスってました。

 

念仏の重要ポイントは「称える行なのか」、「本願を聞くことでいただく信」なのかという問答が「御伝抄」などにあります。

これはそもそも設定がおかしいのです。

「行」と「信」は対立概念ではないのです。

「行」に内在することを分析したのです。

親鸞は、悟りへのポイントが「信」にあったことを、「発見」したということです。

 

それまで、悟りへのプロセスは、教行証だと思い込んでいた仏教者の中で、

「法然門下」に事実、《菩薩道》があり、「なぜ念仏でそうなるのか?」と

考えたところに「浮かんできた」のが「心の転換」という「信」であったのでしょう。

であれば、《これは無意識の意識化》ですから、

 

「行」がポイントか?「信」がポイントか?という議論そのものについて、

ほぼ「親鸞が何を言っているのか?」わからない人も多かったでしょう。

《現代でも!》

 

「発見」や「無意識の意識化」という言語や概念がない時代ですから表現に限界があったのです。

 

ここにある問題点は、「行」の内容を《分析して言語化する》という概念がない時代、

《無意識》や《脳内データ》を「無表色(業)」というような〈曖昧な言語〉で理解している時代に、

 

「心に何かが起こって、凡夫が菩薩道を歩むようになった。」

「そのキッカケが〈念仏行〉だった」ということを分析して、《心の転換というプロセスを発見した》親鸞が、それを「信」に定義して、一生懸命に「真実や方便」を論じて理解をうながしている。

 

しかし理解されない。

 

結果、現代のように「言語化する」「無意識の意識化」などといった「概念がない」ことが、

「わかりにくい状態を作ってしまった」のだと推察できます。

 

《時代による表現の限界》ということです。

 

親鸞は「行」と「信」を対立させたのではなく、《「行」に内在するできごと(心理状態)を分析して論じた》のです。

 

法然さんは「諸行と念仏行」の違いを明確にして、

親鸞さんは「念仏行と信心」の違いを論じたということではないといえるでしょう。

 

だから「行文類」の中に「信」を論じ、教行証の間に「信」を入れたのでしょう。

「賜わりたる信心だからなにもしなくていい」のではなく、

「賜わりたる信心(=行)だからこそ、わたしが変化する」のです。

 

信心に「出体釈」がない以上、「行信」を分離して論じることは不可能なことになるのです。

教行証の「行=信」だと理解しなければ、理解不能になります。

2020-09-09 04:49:00

これって宗教でしょうか?

そもそも「お釈迦さん」の仏教から、インドにおける仏教と、中国の仏教、日本仏教と変遷する中で、仏陀が特別な存在、礼拝の対象になって、

「宗教チック」になりましたが、元来「釈迦」に「礼拝する」というのは「尊敬」を意味しており、時代や地域の変遷のなかで、

その他の仏に「救われた、救われたい」といって、礼拝するいう性質のものではありませんでした。

つまり仏教は元来、いまで言う「宗教」と基本概念が違うので、「哲学や思想」にカテゴライズされるものといえるでしょう。

その点「特殊な宗教」といえるでしょう。

また、こないだまで「宗教だった」団体が、現代は「宗教を嫌がる日本人が多い」ので、セミナーにしていたり、

教育団体としている宗教団体も増えており、このケースと仏教は、流れは逆ですが、いずれも「宗教という枠組み」でなくとも、

不自然ではありません!

2020-09-09 01:45:00

営業念仏‼️

歎異抄は、「ひとが助かること以外に人生はない」というのが「ブッダ的」だと思います(≧∀≦)←この顔しかバリエーションがありませんhaha!

 

ただ「四、五条」なかでも「五条」のラストの「まず有縁を度す」という、限定(限界)を示す文言からも「現生の大乗菩薩道」で定義しないと、絵空事になると思います。

 

また「四条」にある「今生」を「心命終」以前の自我状態のわたしが大概もつ「世俗のいとおし、不便と思う、自我執によるあわれみ」は「存知のごとくたすけがたければ」ということになるでしょう。

 

そもそも「ここでいう助ける」の定義を「世俗定義」で読むとおかしくなります。

 

仏教でいう助けるは「さとらせる定義」なので、

 

「仏教はさとらす《利他が重要》だと定義をご存知だと思うから、いくら人知で憐れんでも、さとらすには、浄土の慈悲(仏智)をともに目指すこと」です。

と読んで。。

 

「いま、ひとが助かる(さとり、一如に向かう)こと」が「サンガ」の一如、和合を作ることである。

 

というように読む方がいいと思います。

 

 

事実「ユ●●フ」なんかで「チャイルドスポンサー」の募集広告がありますが、

なぜ「特定の地域なのか」というようなこと、

 

「ほんとうにそこへお金が行くのか?」というようなことについて問いを持たない、

 

「お人好し日本人」に向かってならではの「集金システム」なのか、なんて「疑問を持たない」からこそ、

 

資料の「スーダン」の写真を見て思わず「祈り」を捧げるキリスト教のひとなどは、世界的な視野を持って、こういうことには「敏感なひとが多く、できることをして」います。

 

本願寺派の僧侶は「食べものを恵まれました」だから「感謝しましょう」という、意識レベルだから、こういう世界情勢を「観光バスのなかで弁当食べながら見物している」というほどの意識レベルだと思っています。

 

これも「内なる崩壊(法難)」「情報と資本主義の混沌(カオス)」だと思っています‼️

2020-09-09 01:42:00

【基本中の基本】

八正道の「正思惟」について、スマナサーラ長老は、

・無害心 

・無瞋恚 

・無貪欲

といわれています。

 

最初の無害心は、生きとし生けるものに対して害を与えないと。どうやったら助けてあげられますかと命を守ることを大事に考えて、慈しみの心に基づいた考え方をするということ。

 

無瞋恚は、怒らないことです。怒りの基は、結局自分のしたいことを邪魔されるから怒る、つまり底に欲望というものがあります。自分の都合に悪いもの、自分に好ましくない人々をなんとか倒そう、なんとか害を与えようと、怒りをもって暴力をふるうんです。そうすることで本当に世の中生き辛い世の中に変わってきます。そうではなくて自分の怒りをコントロールして、考えるときは怒りをなくして考えて欲しい。そういう考え方なんですね。

 

無貪欲は「余計な欲」と解釈したほうがよいですね。この世を生きていくは、物が必要になります。私たちは余計なものまで、いっぱいものを欲しいと思うんですね。切りがないんです。「お金はいくらでも欲しい」とか、「クルマは何台あってもいい」というように際限なく欲望をつのらせてしまいます。貪欲は余分な欲という意味です。その余分な欲のために人間は大変な苦労や悩みを背負いこんでいるのです。貪欲を離れることです。

 

真実から離れた幻覚のような三つから離れた思考が正思惟です。

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