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2020-09-10 00:49:00
信行両座のミス。。
「信行両座」ってそもそも設定をミスってました。
念仏の重要ポイントは「称える行なのか」、「本願を聞くことでいただく信」なのかという問答が「御伝抄」などにあります。
これはそもそも設定がおかしいのです。
「行」と「信」は対立概念ではないのです。
「行」に内在することを分析したのです。
親鸞は、悟りへのポイントが「信」にあったことを、「発見」したということです。
それまで、悟りへのプロセスは、教行証だと思い込んでいた仏教者の中で、
「法然門下」に事実、《菩薩道》があり、「なぜ念仏でそうなるのか?」と
考えたところに「浮かんできた」のが「心の転換」という「信」であったのでしょう。
であれば、《これは無意識の意識化》ですから、
「行」がポイントか?「信」がポイントか?という議論そのものについて、
ほぼ「親鸞が何を言っているのか?」わからない人も多かったでしょう。
《現代でも!》
「発見」や「無意識の意識化」という言語や概念がない時代ですから表現に限界があったのです。
ここにある問題点は、「行」の内容を《分析して言語化する》という概念がない時代、
《無意識》や《脳内データ》を「無表色(業)」というような〈曖昧な言語〉で理解している時代に、
「心に何かが起こって、凡夫が菩薩道を歩むようになった。」
「そのキッカケが〈念仏行〉だった」ということを分析して、《心の転換というプロセスを発見した》親鸞が、それを「信」に定義して、一生懸命に「真実や方便」を論じて理解をうながしている。
しかし理解されない。
結果、現代のように「言語化する」「無意識の意識化」などといった「概念がない」ことが、
「わかりにくい状態を作ってしまった」のだと推察できます。
《時代による表現の限界》ということです。
親鸞は「行」と「信」を対立させたのではなく、《「行」に内在するできごと(心理状態)を分析して論じた》のです。
法然さんは「諸行と念仏行」の違いを明確にして、
親鸞さんは「念仏行と信心」の違いを論じたということではないといえるでしょう。
だから「行文類」の中に「信」を論じ、教行証の間に「信」を入れたのでしょう。
「賜わりたる信心だからなにもしなくていい」のではなく、
「賜わりたる信心(=行)だからこそ、わたしが変化する」のです。
信心に「出体釈」がない以上、「行信」を分離して論じることは不可能なことになるのです。
教行証の「行=信」だと理解しなければ、理解不能になります。