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2020-09-27 02:26:00

初地と等覚(51位から10段進む)

法蔵菩薩は成仏したのか、十劫の昔に成仏したといえるか?

 

法蔵菩薩が十劫のむかしに成仏したというのは、

「法蔵菩薩」は、完全なさとりからの垂迹(方便)、

言い換えると「真如からの来生」であるといえます。

 

大経の論から「法蔵菩薩のさとりへの道」は、

わたしの「大乗菩薩道」《願行》の道であると、

 

真如が誘導していると理解できますし、

それが「大経」の真実です。

 

こう理解しなければ、「法蔵菩薩の存在」も「願行」も本来不要と

いうことになってしまいます。

 

法蔵菩薩が「讃仏偈」によって「世自在王仏を讃嘆していること」が、

「讃嘆門行」とのちに天親が定義したのかもしれません。

 

そして、ストーリーに「設我得仏〜不取正覚」とある以上、

わたしが迷っている限りにおいては、法蔵菩薩が成仏しているとは

いえないという矛盾に思える内容の答えです。

 

「成就文」は「願いの成就」でしかありません。

 

しかも本願力は増上縁ですから、わたしがこの本願力を

「無疑」に受け入れ、わたしに着床しなければ、

 

大乗菩薩道(法蔵菩薩の願行)を生きることにはなりません。

 

ですから「法蔵菩薩は真如のさとりからの垂迹である」と理解して、

わたしが、願行に生きて「初地から等覚に至る」という、実践の

必要性をストーリーにされているのです。

 

ですからわたしたちは「初地から等覚への歩み」を法蔵菩薩とともに

生きることによってこそ、念仏行を生きるといえるのです。

 

そういうポイントで、親鸞は「等覚よりも初地」について、

いろいろな場面で論じ、まず初地にはいり、究極は、正信偈に記述した

「成等覚証大涅槃」

という究極の境地に至ることを述べています。

 

つまりわたしたちは、五念門行で「如来」が着床し、熟していくと、

肉体だけ残した「等覚」に至れるのです。