インフォメーション(日々更新中)
2019-06-27 20:55:00
ゴミ情報を捨てて無駄な思考を止める❣️
なぜ「バイブル」があり、「旧約聖書は厳しい神」で「新約聖書は愛の神」なのか。
なぜ「四十八願」があるのか。
これらは、「神」に「理由を聞き」、「如来」に「意味を問う」ときの「指針」であると言えます。
私たちが「祈り」、「憶念」するときに、日々の「出来事や情報を整理する」。。
その時に、「指針(論)があれば仕分けがしやすい」んです。
「裁く」というと厳しく聞こえるけれど、「要不要」を仕分けて、
「整然と整理した脳の状態」を作るには、「仕分け」ないと、
「脳がゴミ溜め」になるんです。
どーでもいい情報に振り回されて、どーでもいい情動に振り回されるなら、
静かに「神か如来」に向かって、「場所や時間はどこでもいい」けれど、
自己のこころは「静寂な中」で、必要な事柄を「選択する」ために「指針となる、自己以上の存在」
からの「メッセージ」、それが、「バイブルや四十八願」なのでしょう。
そうやっていれば、「神や如来から、メッセージを受け取る形で、重要なことがらが明確になる」
これを「実行する」ことが、現実を整然と整理してくれて、功徳荘厳に換えてくれるし、
「祈りや憶念」がしやすくなる、といえます❣️
そこで「バイブル」は「厳しい裁き(捌き)の側面と愛の側面」をもつ。
旧来「愛」という文言は、日本では「日常的ではなく」戦後に普及した文言と「情動定義語」だから、
平安時代や鎌倉時代では、「布施」と翻訳されていたようです❣️
親鸞のいう「矜哀(あわれみ)」という文言も同じように「愛」を意味しています。
つまり「無償の愛」「無条件の慈悲」です❣️
これは「仕分け」「選択」しなければ、与えられないのです❣️
だから「神や如来」がその作業をしてくれているのでしょう‼️