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2019-07-03 23:21:00
免許を持っていますか⁉️
クルマの免許とパスポートと健康保険証のうち「本当の意味」で「身分証明書」にならないのは?
なぜ「健康保険証」には写真がないか?
「免許」は「そうしてもいい」「禁止を解く」つまり「解除」
「パスポート」は「外国に行ってもいい」「解除」
「健康保険証」がなくても「医療は受けられる」。。。
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「医師免許」と「整体の資格」
「資格」は「免許」ではない。
「医師免許」がないと医療行為はできない。
けど、
「華道の免許」がなくても「華を教えられる」のに。。。
古くからある「師範」などで「免許」と使うけど、「本来は資格」‼️
国家であれ、民間であれ「誰かが認めれば、解除の概念がはたらいて」《資格》になる。
これは、認めた「誰か」を「社会が認めるかどうか」にかかっている。
資格は、その人が持っているスキルや知識や能力などを判定する基準のこと。。
「ただ能力の問題」である。
「弁護士」なども、じつは「免許」である。
「免許」は「国家ないしは自治体」が認めなければ「解除されない」ものである。
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では「観経の三福九品」は、「さとりに至る《資格》があるか?」ということと言えるかもしれない。
この「能力判定の分類」が「三福九品」なのかもしれない!
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さて、さらにここで、免許は「許す」という意味で「認許」である‼️
じゃあ「赦す」のは、「赦免」というけれど、「免許を赦す?」のか。。
「赦して免じる」と読む方が適切な読み方である。
「念仏弾圧」で「罪人になった親鸞」は「赦免」された。
これは「罪を解除する」という意味である。
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「赦す」は「特に《罪》について《解除する》こと」であるから、「許すと赦す」は意味が違う。
「罪があるかないか」である。。
ここで、仏教で「ナマス」という「サンスクリット語」があるけれど、これを「認許(にんこ)」ともいう。(namas の元になる「namo」は「南無(ナム)」や「那謨(ナモ)」、「namaḥ」は「曩莫(ナウマク)」や「南麼(ナウマク)」等と音写される)
「南无阿弥陀仏」は「阿弥陀仏が認許している」という概念である‼️
ここには「罪」がない。。
キリスト教は「原罪」を「神」が「赦す」から、意味が違うように見える。
けれど、「罪の意識」は「キリスト教だけ」なのか。。。
「八十億劫の罪」が「消える」という概念は、
「阿弥陀如来が《許して》いて救われるからなのか?」
「阿弥陀如来が《赦して》いて救われるからなのか?」
「真実則」からいえば「無我」になれば、「すべてが消える」。。「前者」である、
「方便則」でいう「罪が如来に許される」という概念ならば、「赦される」と「後者」で記述すべきである。
キリスト教は、「原罪」という明確な二元のストーリーがあるから、「赦す」でよい。
仏教(真宗)は「阿弥陀如来が受け入れて認許する」ことで「罪が解除される」というストーリーだとすると「阿弥陀如来が罪を滅してくださる」ということで、「無為法が有為法を消滅させる」という意味になるけれど、
ここに「信楽」が入ると「阿弥陀如来が認許している真実心を疑いなく受け入れる」という方向になる。
これは「有為法の人間が、無為法の《み名》を受け入れて、《自我名字を捨てる》こと」
つまり「屈服礼拝」から「讃嘆」へと向かう。。
キリスト教では「神がイエスとして人間界に現れて」十字架を背負い、人間の罪を贖った(買い戻した)という時点で、「人間の原罪は《赦されて解除》されていて、それを神の愛という」のだから、
「人間の罪は消えている」ハズである。
そしてこれは「神に屈して、神の《み名》を讃美すること」へと向かう。。
いずれにおいても「如来の真実の願いを知ることと、神の愛を知ること」が前提である。。
「許されて赦す」というじつは同じ意味かもしれない‼️
わたしたちのDNAには「多くの罪」が眠っているといえる。
けれど、「どうしようもない背景、理由がそれぞれ罪の背景にはある」から、「赦されて、許されても当然といえる」かもしれない‼️
いずれにせよ「わたしたち以上のなにか」は、「わたしたちを赦し許している」のである。
- 自燈明 [じとうみょう]