インフォメーション(日々更新中)

2019-08-30 21:15:00

日本の死に対する向き合い方は。。‼️

ふと、喪主いわく。。

あらゆるものが、流転するような世界観もなんとなくわからないでもないし、殊更に死んでしまっている遺体と「お別れを」などと業者さんから強く勧められるのも違和感があったので、瑞穂さんも、最小限の人数でとっとと火葬しちゃったけども、

実は今日、瑞穂さんの遺体に会いにきてくれた〇〇さん母娘が、本当に何度も涙してくれて、やっぱりお別れにきてよかったとおっしゃってくれたのをみながら、遺体でも顔を見に来る機会を皆に作らなかったこと、本当に良かったのかなあとちょっと考えてしまった。        

やっぱり顔を見て死んでいることを確認できるからこそ、これから生きて行く人間がけじめをつけられるのかもしれないなと。

 

ーーー

 

あるひといわく。。

仏教は基本「過去、未来、現在」という時間軸で論じます。

今、という瞬間が流れてもその流れに応じた「瞬間」より短い「刹那」に、

つぎの未来が流れてきて、「現」に「在」します。

 

しかし、計り知れない選択肢の中から、現に在する「現実」は、過去によって現れるので、「執着」が強くなればなるほど、その流れくる未来は「少ない選択肢」から現れるから、「泣く」という「こころの選択肢」には、「死=悲しい」で「終わる」という未来しか現在しないので、「つづきがない」ことに限定されます。

 

だから、「区切り」というのは、「現に在す」を限定してしまうので、「すべてにおいて限定を外す」ことが、「執着しないこと」であり、そうすることで「現実」にいろんな人脈ができたり、「自在」に動けるようになる「智恵」が身について、

「八方塞がり」だとか「挫折」ということがなくなります。

 

そういう意味でも「そういう気持ちがないのに泣く」という「韓国」なんかで「泣き女」という習慣があったように、

日本にも親孝行を説く「儒教的な常識」が日本にもありますが、

仏教には、じつは「親孝行という概念」はありません。

 

気持ちがない「所詮ひとごと」と思うなら、「ウソ」を表現する必要もないし、

気持ちがあっても「執着しない」に徹する!

 

これで「永遠で広い世界(次元)」を生きられるから、「笑って飲みながらオカンの肉体は《量子》に戻った」から「量子」レベルではあるけれど存在するという「イメージ」で、「おーオカンは広大な宇宙レベルになったか‼️」といいつつ語り合う。

 

あるいは「不動心」で「そうなったか」と「納得する」のみ。

お釈迦さんの時代にも「極微(ごくみ)」という「量子」のような概念はあったんです。

 

だから「ありのまま」でしかない。

今回の「葬儀のスタイル」は、ありのままスタイルで「充分」All ok!

だと思っています❣️

兄貴ありがとう。。