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2019-09-01 04:27:00

1、2日は「オカンの本葬で」。。その分書いときます❣️

「方便と真実」について。。

 

キリストつまり神の愛を信じて「天国に行き永遠の楽園」で「永遠のいのち」を得る。

仏の大慈悲を信じて「極楽浄土に行き永遠のさとりの身」を得る。

 

同じような構造の中で「真宗は賜りたる信心」だから。。

イエイエ「キリスト教も神の愛が届いたところでの信心」だから。。

 

「仏にはなれるけど、神にはなれないでしょ!」

イエイエ「神が真理そのものだから、仏も神の内なんです!」

とかなんとか。。

 

いずれも「言葉にできないことをあえて言語化」している以上、いずれも方便のストーリーだから「張り合う必要はない」うえ、結果そのストーリーの中で。。

 

「神に任す」「仏に任す」という状態になるのだから、

どっちも事実上「無我」を生きる《真実》《自然》に任すという状態になっているのに。。

 

いずれもが「方便言説」にとらわれると、また「自我」に戻ります。

 

問題は「真実真理」に生きているかどうかであり、どっちが正しいかではないのに、大概の場合「言説方便」に執着してしまう。。

 

結論が同じなら、プロセスはフィットしたものでいい❣️

そこが重要なんだから。。

 

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「隠れ念仏」と「隠れキリシタン」

 

室町時代の終わり1555年ぐらいから300年、明治6年ぐらいまで、一部地域で「隠れ念仏」があった。

 

それが、蓮如さんの時代からの「真宗念仏者」と、江戸時代の「隠れキリシタン」と混ざり合った。

 

長野には「隠れ念仏と隠れキリシタンの関係」についての研究があるが、それが明治になって「隠れキリシタン」が真宗に残った。。

 

そもそも1549年あたりには「種子島の鉄砲の伝来」そして「フランシスコザビエルがキリスト教を伝えた」という歴史がある。

 

そういう歴史の流れのなかで「隠れ念仏と隠れキリシタンが混在した」ということは「自然(しぜん)」ともいえるし「あってもしかり」といえる。。

 

それほど「信文類のみに限定した方便」は「蓮如さん」に受け継がれて、「キリスト教とほぼ構造が同じ」なのである!