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2020-01-05 01:05:00
「仏性遍満利他力自然の本願」を生きる❗️
今日「ある寺院報恩講」でのお話。。
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教行証文類のp197-5に、、
説きて「煩悩の氷解けて功徳の水となる」とのたまへるがごとし。
願海は二乗雑善の中下の屍骸を宿さず。
という部分が「現代でいう」写メの図であるといえるでしょう。
わたし自身もわたしの周囲もすべて「原子が遍満」しています。
これを「仏性遍満」といえます。
「死」というのは「いのち」がこういう「変化をする(無常)だけのこと」であり、
「亡くなったら、氷が水になる」ような状態なのです。
そして、わたしが「自我の殻を破れない」のは、このような本来のわたしのあり方に「無知、無明」だからだといえます。
「無我(非我 )」つまり「利他力自然」を生きるというのは、「人為」=「偽」=「自力(自我力)」が「苦悩を生む」と「智慧光」(अमिताभ、Amitābha)によって「知らされて」、、
わたしの生命から「自然に沸き起こる本願(意思)」を「一如真如」の「利他力自然」からの「至心」であるといただいて「行なう(行じる)」ことであるといえます。
この「仏性(原子)遍満」を「一如真如の利他力自然」として「行じる」ようになるのが「疑蓋無雑の信」であり、そのなかで「多次元浄土」を観察するようになることを「信楽の楽」=「欲生心」といいます。
追記
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「利他力自然の本願」を行じるというのは、「慈悲を行じること」で、
そうでなければ「なぜ生命に《愛》があり《慈悲》があるのか‼️」
と思いませんか。。