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2020-01-22 03:53:00
国宝は人材にして、政治は多様化なり‼️
日本で「陰謀論ビジネス」が流行しているようであるが、
日本人が、なぜ世の中がこんな状況なのか?
なにかがおかしいと思っている人も多いのだろう。
また、「成功(儲かる方法)」を教えるという「ノウハウビジネス」も盛んである。
けれど、これらの「正否」「適不適」を判断できないのに、
「なにを信じたらいいのか」という重要ポイントが欠けている。
ただ無駄に「知識を得た」としても、真偽がわからない上に、
「知ったところでなにもできない」というのが「事実」である。
重要なポイントを解決するには「智恵」が必要である。
「自ら考えること」であり、「どう考えるか」ということである。
これは政治にもいえることであり、
「悪知恵に見えたとしても」じつは必要なことであるなら、
どんなことであろうが「考えること」である。
「先を読みいまなにをなすべきか」という思考ができる、、
「現況を分析し、先を見て、いますべきことを考えること」ができるトップと、
それを支え、アドバイスもできて、実行できる少数かつ複数の人が必要である。
政治家ひとりで「すべてをまかなう」ことは至難である。
事業もなんでも同じであると言える。
しかし、多数のひとがトップのいうことを聞くことはない。
本願寺派の寺院が、1万ヶ寺あるけれど、トップがいうことに従う寺院は少ない。
つまり、「アメとムチ」をもってしても、「いうことを聞かない」というひとが出てくるのが人間界である。
ここで「多数による陰謀はあり得ない」とわかる。
また「顧客」が定着しないこともわかる。
「商売」は地味である。
いっとき儲けて逃げるような「商法」が長続きすることは至難である。
また、これは「田舎」のひとが地元でやることは、ほぼ不可能と言える。
また、これだけ氾濫する情報の中から「ひとつのこと」だけに偏って訴えかけても「受け付けない」から、
たとえば「宗教」においてもセクトにこだわってもどうしようもない。
宗派の本質を、他の宗教と協調して前進するしかない。
政治に話しを戻せば、「多様化した情報の中」から「どうやって進めるか」をセクトを超えて考えられる政治家になる必要がある。
国民は「与党と野党の適切な対決」を重要と見るかもしれない。
けれど、じつは「日本は与党でなければ動かせないシステム」が出来上がっている。
そして「どの業界も同じ」ように「人材不足」であるから、
国民自体が「陰謀論」などに振り回されて「評論家」になっていても意味がない。
「坊主丸儲け」だと思うなら、「坊主をやってみる」といい。。
どの世界も「評論」は誰にでもできるけれど、「実行」が難しいのである。
「けなし合う、牽制しあう政治」与野党の対決による政治は「有能なひと」にしかできないうえ、結果「和合社会」は実現できない。
「統一と和合」は異なる。
違いを理解して「助け合う」ことが「和合」であり、合わないひととは「距離を測る」のも和合である。
つまり「国」というのは「諸天人民」いろんなひとがいてもいいのである。
「じゃまさえしなければいい」ということである。
また「経済分配」を基準にした「党派」では意味がない時代である。
「有能なハッカーに簡単に壊される時代である」
これからは「志向による党派」が必要である。
「少数派を活かす国づくり」ともいえる。
政治でいえば「特区」をいくつも作ることであるといえる。
誤解を招くかもしれないけれど、わかりやすい例えで言うなら。
最先端、次世代型の「合衆国、連邦」を作ることといえるかもしれない。
これを「市町村のレベル」からでも始めるといい。
「統一したシステム」ですべてを統治するのは不可能といえる。
地方自治体と国家が「和合」することが、最もスムーズな方向である。
しかしこれには「有能な人材」が必要であるから、
こういった理念による「人材育成」が急がれる。
自己の分限→[自分]のスペシャリストの発掘と育成である。
本来「最澄がしようとしたこと」であるが「空海」との間で「ブレ」てしまった。(国宝は人材なりである)
じつは「障がい」といわれるひとにも「スペシャリスト」は多いから、
「障がい」という定義は「その能力を見出せない政治」による定義だと言っているようなものである。
脳は「歳をとっても衰えない」けれど、「老後」「高齢」「余生」といった言語が「脳をストップ」させるといえる。
老後でも「口が達者」というのは「脳が活動している」からである。
つまり「スペシャリストは、いまの定義や社会常識を超えたところにいる」ということである。
《人間界は弱肉強食ではない》
《人間はエデュケーション(能力を引き出すこと)次第である》
この長い文章は「評論」ではなく、「啓蒙のための発信」であると定義していただければ幸いである‼️