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2020-02-10 04:18:00
「行間」「語間」の深さと《心理戦》‼️
【akio独語】
「亡くなった父と母は成仏しているでしょうか?」
こういった問いを投げかけられたら。。
「ハイ」と即答するのもありだろうが、
『なぜこの問いが出たか?』をまずは探る方がいいだろう。
よく知る相手ならまだしも、ほとんどお初の相手に聞かれたら。。
とりあえず「どうされましたか?」と聞き返してみよう。。
「いえ、両親とも仲が良かったので、、」
『あ〜そうなんですか!』と急いでは間違うだろう。。
この「いえ、」がなにを意味しているのか?
「いえ、なにごともないのですが。。」ということか?
「いえ、、じつは、、」と「行間」ならぬ「語間」になにかあるのか。。
「いえ、じつは、残された兄弟で《相続争い》をしているけれど、仲が良かった両親がどう思うのか。。」
といった「語間」が隠れているかもしれないからである。
「両親」ならぬ「良心」がいわせているといえるかもしれないので、
このようなひとは「たとえ相続争いをしていても《まだ良い》」といえるだろう。
わたしたち「僧侶」は、葬儀などにおいて、「隠されている親族争い」を「体感すること」がある。
あんなに財産があるのに。。と他人には見えるかもしれない。
けれど、「抵当権」がついている。しかも「根、抵当権」だったりする。。
なんてことも、たくさんある。。
この「根」については、みなさんも知っておいた方がいいだろうと思うけれど、みなさんご自身で「ググって」くださいませ!
また「法務局の共同担保」がついてたりといったことも。。
とにかく「そこには[根]深い《煩悩》が炎上していたり」するから、注意して「問いを聞くこと」である。
「両親は成仏して、ここにまだ居ますか?」
なんていう問いの「語間」にそういうことがあるのを知らずに、、
『そうです。成仏してみなさんを見ておられますよ』
なんて言おうものなら。。あとの親族会議で、、
「お坊さんが、ここにお父さんとお母さんがいるといっていたから、この家は売れない」なんて「武器」にされるかもしれません❣️
この例文のように、「僧侶」は「成仏して、見ている」といっているだけで、「ここに居る」といっていないとしても、そういわれてしまうかもしれない。
ここで、『お浄土で成仏しておられますよ』といったとしても、
「じゃあここには居ないんですか?」と聞き返されたら、、
『イエイエ還相回向と言いまして、帰って(還って)きておられるんです』
なんて言おうものなら、、
「よっしゃいうてくれた」なんて思いつつ、、
「ありがたいことです😭」というかもしれないのです。
だから「宗教は不要」なのではなく「重要」なのです!
「宗教者はそこまで深く、智慧をもって関わること」が重要であり、
思慮深いところから出てくる「宗教者のことば」には、《相続争い》があったとしても、
その「煩悩の炎」を鎮火させる「はたらき」があるからなのです。
ここにこそ「真の法のはたらき(効用)」があるといえるでしょう!
「精神世界」に働きかけるには、「俗世の泥々」をも知る(観察する)ことが、
「教人信」のために必要なのです。
「機の真実(人間の煩悩のありさま)」は「他人事」ではなく、「目の前の現実にもある」のであり、「わたしひとりの問題」ではすまない。。
だから「法の真実」が、智慧と慈悲を与え、「争い」を「鎮静化して」やがて「その関係を和合に転換する」のだといえる。
「真実を生きる宗教者」は、こういった「深い洞察や観察」ができるような「プロフェッショナル」であれ!(馴染まない表現かもしれないけれど)
と、世間は望んでいるのだろう。。
そうであれば「僧侶は要らない」となるべくもなく、、
「僧侶に精神世界を埋めてもらいたい」と思うのではなのでしょうか。
そういう意味でも「わたしもそういった菩薩道を歩む日々」であるといえます‼️