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2020-02-20 23:20:00

世界的に理解し合う関係‼️

なんだか「ある人からサゼスション受けて」最近ちょこっと調べています。

 

道綽と景教の関係と、道綽と善導の関係の中で「確立した」のが、中国浄土教だという「仮説」が成り立つのではないか?

 

浄土教=仏教とキリスト教は、全く別物と思いたいひとが多いから「避けられている研究分野」だと言われましたが、、

 

学問ってけっこう「需給関係」で成り立ってるから、「クールに客観的な損得関係ない研究」って意外と「どの分野」でも少ないようですが、、

 

こういうことが「壁を破って」共通し合う部分から「理解しあえる宗教の連携」が生まれて、世界的に「宗教が精神世界」をカバーできたら「人類にとって」幸いではないか?

 

と考えます。

 

http://jikoji-sapporo.jp/pdf/schoolH26-2.pdf

http://jikoji-sapporo.jp/pdf/schoolH26-2.pdf 

http://bauddha.dhii.jp/INBUDS/search.php?od=6&m=sch&uekey=観無量寿&ekey1=all&lim=20&offs=9

http://bauddha.dhii.jp/INBUDS/search.php?od=6&m=sch&uekey=観無量寿&ekey1=all&lim=20&offs=9

 

https://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/SK/0007/SK00070L131.pdf

https://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/SK/0007/SK00070L131.pdf

 

【観経道綽撰述説】って可能性もあり?

以下関連参考

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おわりに

以上,かなり煩雑な検討を行い,文章の入れ替えを行った。このような作業が正鵠 を射たものかどうかの判断はできない。しかし,一見矛盾なく読めそうな F観経』も,

経典という性格から離れて,もつばら文章構造という面から見れば,かなり文章的に 29) 第八緩及び第十三観の解釈については,注(1)米木3を参照。

 

 146 係;教大学総合研究所紀主主 第 7号

錯綜していることが明らかになったであろう。それは,この経典が本来異なる出典を 持つ話題を統合して,一つの経典になった結果だと考えられる。その話題とは,第ー に阿閤世伝説,第二に序分後半・定善十三観・流通分とが一つになった話題,そして 第三に散善三観となろう。ここで従来の考え方と異なるのは,定善十三観と流通分を 一つの話題と見なした点であろう。そして性格の異なる話題が,さまざまな接着剤に

よって,外見上は一つの話にまとまるように仕立てられた。それが『観経』である。 本稿では,以上のことを序分及び定善十三観を中心にして検討した。その結果,少 なくとも定善十三観は本来,その主体が阿難であることを指摘した。すなわちそこで

は,仏が意提希のみに対して語りかける場合は,それを語り終えた時に阿難に確認さ せ,そしてこの経典の主要部分になる箇所では,陣難のみに対して語りかけるのであ る。これは,この経典が本来は, ~可難にその内容を伝えるためのものだったことを物 語ろう。それでは,何故阿難に語りかけるのか。それは,未来世一切衆生のためだ、っ た。従って,主主提希にはそれが期待されていなかった。この経典は,章提希に極楽世 界に往生させることを呂的にしているように見えるが,実は,阿難にその内容を記憶 させ,それを未来世一切衆生に語り継がせる目的があったのである。このように考え ると,主主提希の役割も問い直す必要がある。本来,何難を中心として語られた定義十 三観に,巧みに意提希が組み込まれた可能性を否定できないように思われる。むしろ 掌提希を捨象した時,この経典の本質が見えてくるのかもしれない。

以上のように考える時,その前後に配置された阿罷世缶説や散善三観はどのような 位寵付けを与えられるのであろうか。これについては筆者の能力の範囲を越え,にわ かに答えは出ない。しかし散善三三観が後の浄土教思想に重要な意味を持ったとすれば, 少なくともこれなくしては r観経』が浄土教の主要経典の一つに数えられることは なかったとだけはいえよう。

〔付記〕

本稿は, jI弗教大学総合研究所「浄土教の総合的研究」班(主任・香川孝雄)における研究成

果の一部である。ただし本稿は,研究班終了後,筆者が独自で改めて F観経』を検討して得 られた結果が多く含まれており,研究班参加者の共通の認識となっていないことを確認して

おきたい。