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2020-02-22 03:41:00

救われない布教‼️

前回の引用から。。

 

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なぜ、釈尊は、教えを文字で残すことを許されなかったのか・・

 

「文字化→概念の固定化→実体視→執着→迷い苦しみ」ということがあるからではないかと存じております。

 

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この部分で、「概念の固定化」とある部分が大きなポイントだと思います。

「同じ文章を読んでも、同じ概念を持つことはほぼないといえます」

 

理由は「いわずもがな」で略しますが、

真宗の法話を聞いて、、

「阿弥陀さんが死んだらええとこに行かせてくれる」という概念化から、、

「阿弥陀如来によって悟りへ至る」という概念もあり、

「名号なるものが、浄土へ行かせてくれるねん」と言った概念もあるでしょう。

 

ここに正しさはあるでしょうか。

 

釈尊にとって「正しさ」ということは、「苦悩のもの苦を根源的な部分から除くこと」であり、「それ以上でも以下でもない」でしょう。

 

英語の「正義=justice」は、「公平、バランス、ある定義においてそれ以上でも以下でもない」と言った意味を持つようです。

 

また、釈尊は「教団や組織」を率いていたという意識はあったのでしょうか?

つまり「セクト意識があって」わたしでなければ救えない。

 

と思っていたのでしょうか?

 

この「釈尊に関する概念」も固定化できるのでしょうか?

だからといって、誰にでも「なんでもいい」という姿勢であったかどうかもわかりません。

 

《わからない過去を論じる意味はない》

これが真実ではないでしょうか!

 

ならば《明確になる未来を現在させて生きる方が有意義ではないのでしょうか!》

 

釈迦がどう言ったかではなく「釈迦などの先人の智慧を得て、「いま苦しむものを(自己を含めて)救う」という現実に意味があることを論じることこそ、人間種にとって意味があるのではないでしょうか!

 

偉いひとや悟ったひとが言ったことを「概念化」して伝えてみても、

その概念が「ひとを救うことがどこまで可能」なのでしょう。

 

少なくとも「ほんとうに〈ある概念〉によって救われた事実があって伝えられることなら、意味はあるかもしれません」が、、

 

「阿弥陀如来」の信心をいただいて「称名」していて、どうにもなっていないならば、「救われるそうですが、いまわたしは実体験中でまだわかりません」という方が「正確」で、かえって「共感は得られる」でしょう。

 

しかし、僧侶や布教使が、「世俗で苦しんでいる人にあらかじめ設定された場所で、阿弥陀さまの救いが云々」といってみたところで、

その僧侶や布教使が「名誉やお金」のために「なりもしない話をしている」と聴衆は思っているようです。

(事実お礼が安いのどうのと、ウラではいっている布教使も多いものです)

 

これでは「共感すら得られません」から、「門徒(檀家)の役員さんはめんどくさそうに聞いている」のです。

 

「こんな話になんでこんなにお金を払うねん」と思っているのは「出資者」である門徒さんであり役員さんなのですから。。(わたしのエリアでは報恩講は特にそうです)

そこが納得しない以上「無意味な概念」を話していると「自省しなければならない」でしょう。

 

「それ以上でも以下でもない」適正な救いを伝えなければ無意味であり、社会から「葬儀を含めて不要」と思われても仕方がありません。

 

しかし、こういうFBで問題提起をしている僧侶方は、もはやそう思っておられるのでしょう。

 

何にもしていない「僧侶方」が問題なのかもしれません。

 

これは「キリスト教」にもいえることで、わたしもいろいろ「キリスト教会」を尋ねてみましたが、僧侶事情と大差ない感は否めません。

 

また「古くなった新興宗教」も同じ状態のようです!