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2020-03-03 22:13:00

店長の苦悩。。😭

今日、広告にほだされた友人と近隣の「イタリアンレストラン」に行った。

「広告と実態があまりにも違う」とわたしは思った。

 

わたしはその時点で「広告と実態が違いすぎる」と

「店長に指摘した」けれど、

 

店内の座席数と顧客単価を見て、

ざっくり見込みの1日の「売り上げ」を計算して、

 

食品原価を18%、地代、水道光熱費、ぱっと見たところの「従業員数」などから、

「月間給与」などのコストを弾き出し、

 

売り上げ−コスト=粗利益を、25日計算で割り出した。

 

そして、この店が近隣で数店舗やっているのを知っていたので、

スマホを使って、本社を調べ、本社の社長を調べたところ、

「取締役社長」だったので、「雇われ社長」だと認識した。

 

このような場合、「代表取締役」でないということは、

銀行借入するにしても、連帯保証人にはなるけれど、

債務者にはならない。

 

だから「雇われ社長」であると判断できる。

 

また「会社概要」を見て、

この店は「FC」であるとわかったが、

10年経っても店舗数が増えていないから、

 

「FC」に負担を強いていると認識した。

 

つまり、「食材の仕入れ」も本社から「高く仕入れさせられて」

「厨房機材」なども「本社のリース」になっていて、

おまけに「ロイヤリティ」を払っている。

といったことを意味する。

 

そして「シェフ」でもある「店長」が必ず「お会計」をしている。

これは、「従業員に任せて、うち引きをされたことがある」ということなのだろう。

「うち引き」は「従業員が万引きやレジのお金を盗むこと」をいう。

 

胸の名札に「トレーナー」と書かれた「従業員」がいたけれど、

モチベーションは低そうであった。

 

本社の従業員募集広告に「パテシエ募集、時給900円」ってあるけれど、

パテシエを「バイト」で入れてなにをしたいのか?

あまりにも「バカらしくて」本社も「迷走している」のもわかる。

 

そこで改めて店長に「粗利益はこのぐらいありますか?」

「確認ですけど、こちらはFCですか?」と尋ねたら、

 

「粗利益はそんなにないです」「FCです」という。

「じゃああなたはFCオーナーですか?」と聞いた。

「いえわたしはただの店長です」という。

 

そこで「じゃあ仕入れやリースを本社から強いられて大変でしょう」といった。

店長は、「おっしゃる通りです」という。

 

わたしは「じゃあ店長さん、本社から追われ、FCオーナーからも追われ、従業員は横着して、大変でしょう」といった。

店長は「そうなんです。ありがとうございます😭」といい、

「わかってくれるひとがいた」という状況になった。

 

そもそも「この店は以前に何度か来たことがある」けれど、

この不景気に「客単価」が高いシステムになっていて、

 

夜でも最低一人4,000円からなのである。

 

どんどん「外から見ても客が減ってきているのは見ていた」から、

システムを変えないとこのままでは「倒れる」と思っていた。

 

そして「本社の経営努力」がされていないのもわかる。

「雇われ社長」は「FCに負担を強いて怠けている」と観える。

 

そこで店長が、「もっとも苦しい位置にいる」というのが手にとるようにわかった。

 

わたしは、助けてほしいと思ったら言ってね!

といって、助け舟を出して帰った。

 

友人は「スマホ」をいじったり、紙ナプキンに数字を書いているわたしに、

「何してるのか?」と聞いたので、「あなたはうまいうまいと食べといたらいいから。。」といった。

 

このような場合、わたしは「店長とFCオーナーの間」に入ると、全社を挙げて経営改善はできる。

しかしいまわたしは「とくに自分からそこに入る必要もなく、仕事を増やす気もない」から、

「積極的アプローチはしなかった」けれど、

 

ここで「助け舟に乗りたい」と店長が申し出てきたら、お手伝いをするつもりである。

 

同じ場所にいて「観るところが違う」という「次元が違う」というのは、こういったことであろう。

「利他を行じる」ということは「世俗を知る努力」が前提である。

 

みんな、なにに困っていて、どこをどうすれば良いかを知ることである。

 

「仏道」は世俗の次元を変えて観るところにある。

「観察」「止観」はそこまでいかなければ、「自己満足」で終わり、

「さとり」も意味をなさないと言えるのではないだろうか。

 

僧侶は「檀家(門徒)さん」が何に困っていて、どうアプローチしたらいいかという「智慧」を持たなければ不要になる。

このような「具体的なこと」がわからなくても、「困っていることを世俗のありさま」として「聞く」ことである。

 

「わかってくれるひとがいる」というだけでも充分なのだから。。