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2020-07-08 04:42:00
粗供養(ほぼ供養)‼️
わたしのなかには、年齢に関係なく「いろんなひと」から教えられたことがあり、そういう人びとの示唆のなかで生きている。
それはなにも、亡くなったひとや先祖に限定されることではない。
わたしは「葬儀」のたびに、「亡くなったかたの思い出や何気なく教えられたことを思い出しつつ、その功徳を受け継いでいただけたら幸いです。」といったことをお話しするけれど、
亡くなったひとが「近しいひと」でなくても、そういう思いで、生死は関係なく「すべてのひと同士」が関わっていけば、ずいぶんと世の中も変わるのではないか。。
と思う。。
わたしの実母が昨年亡くなって、ボチボチ1周会(忌)であるが、わたしは、そういう日にのみ母を思っているわけでもなく、だからといって「日々思う」というわけでもない。。
そもそも1周会さえ忘れていた。
東京に住むアニキから「どういう風にしようか」という連絡があって思い出したほどである。
本来、仏教は先祖供養を目的とした教えではない。。
と、地元の法話で「散々言いまくってきた」きたけれど、、
「寺=死者(先祖を守ってもらうところ)」というイメージは変えられない。
草津の地元のムラでは、「法事はしないと誰かに怒られる」という「決めごと」のようになっている。
コロナのマスクと同じである。
とはいえ「コロナ」から、さらに簡素化して「家族だけでやります」というところが増えてきた。。
そこでもわたしは「仏になられたご先祖からいただいた功徳を思い出しつつお参りください」と最大限「先祖供養」に譲歩した言いかたをしている。
法事が「仏教にあう〈仏縁〉である」ということを、散々言いまくって、「譲歩する」ようになってしまった。。
やはり「法事」というシステムを変えない限り、このイメージは変わらないのかもしれない。。
お供え物に「粗供養」と書いてあると、いつも「ほぼ供養」と読めて仕方がない。(心の中で笑っている)
埋め込まれた常識を変えることがこれだけ難しいということは、システムによるのか、ひとによるのか、環境によるのか。。
すべての要素によるのかもしれないと思う。
そういう意味では「お寺の荘厳」を変えるわけにもいかないので、
「別院」という道場形式にして、そこでは「法衣」も洋装にし、イメージを変えている。
そうして2年が過ぎた。。
この間に「多数の人」が訪れてくださった。
若い人(30代から40代)は、このほうが気楽という人もいる。
ただ、だからといって「仏教を学びたい」という人も少ないけれど、
「相談には来やすい」ようで、相談者には「あえて僧侶」というスタンスではなく、「普通に相談を聞いている」けれど、、
相談のなかの話しには「仏教の要素」を入れている。
だからといって「真宗に入ったらどうか」といえない雰囲気がある。
「親鸞という人は〇〇といっているよ」といっても「ヘェーそうなんですか」というほどの雰囲気だったり、「なるほどすごいですね」と言われても、だからといって、それが「入門」にはつながらない。。
やはり「宗教」という認識があるからであろう。
僧侶が「門徒(檀家)さんや信徒さん(お参りだけの関係)を増やす」にしても、「葬儀から」というケースがほとんどなので、、
やはり「先祖供養」から抜けられない。。
キリスト教の信者さんのように「なにかあったら教会に行く」というほどの「信頼」すらされていない。。
仏教は、現代人が抱くような宗教ではなく、どちらかというと「哲学」や「心理学」であるのだから、、
「いのちの学びをするところ」というイメージをもって欲しいと思うのである‼️