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2020-07-11 01:43:00
いのちとこころの関係といのちを大切にする理由‼️
仏教用語を使えば、「命根(みょうこん)」がいのちという、ある意味「エネルギーの塊りそのもの」ということになり、
物理的にいえば「原子や分子のエネルギー」といったところでしょうか。。
そこで、仏教用語でいえば「認識」をこころといえるでしょう。
物理的にいえば「肉体を動かす脳内データ」といったことになるでしょう。
さらに「仏教の唯識論」からいうと「認識の種を入れる蔵識である阿頼耶識」が命根そのもので、
そのなかに入っている「蔵識(阿頼耶識)のなかの種子(しゅうじ)」が「その蔵」を自己と認識する「末那識」(まなしき)や、
「眼耳鼻舌身意」の六識が、心を作るといえます。
これは、「原子、分子」によってできている脳が肉体を「自己」と認識して心を作るということと、
構造的には同じといえます。
そこで「仏教だろうが、脳科学だろうが、生物学であろうが」この「蔵識」や「原子や分子のエネルギー」が個体として存在していると認識された時点で、
それを「いのち」と人間の脳が定義したことは、どの人種でも同じといえるでしょう。
そしてさらに、そのいのちを「自己と認識するプロセス」があってこそ、自己が成り立つのです。
そして「そのいのちが大切」と思うのは、人間において「産まれたときに赤ちゃんは泣き叫ぶこと」で「他のいのちを呼び」そのいのちの叫びを聞いて、
「他のいのちが来てくれる」と「笑うことで愛されること」を認識します。
「ネグレクト」で育った赤ちゃんが「泣かない、笑わない」のは、「この自然が与えた方法は無意味」だと認識するからでしょう。
「泣き叫ぶ赤ちゃん」を抱いている「親」ことに「母親」は、赤ちゃんの笑顔を見て「愛すべき存在」と強く実感します。
こういった「愛」の概念が「宗教や動物愛護」ということを通して精神的成長を人間がしていく中で、
「いのちは愛すべき(大切にすべき)」であるという概念になったといえます。
目の前にいる「ウサギ」を大事に飼うのか、「食べるのか」という選択を、人間は状況判断していますが、
近代になって「食べるために飼育されたいのち」と「生態系のなかで獲ってはならないいのち」「ペットとして大事に飼ういのち」に、
「動植物」を含めて分類し、乱獲を禁じたりしています。
同じ「ウサギ」でも「ペットとして大事にされるいのち」と「弱肉強食」を自然として食べられるウサギが存在することに疑問を持つひともいるでしょう。
そこで「人間」は「大脳を中心とした智恵」をもって、地球という惑星をなかば「主導権をもって支配している」のですから、
その智恵によって、いかに「いのちを取り扱うか」ということについて「重責」があると言わざるを得ません。
今回のテーマをまとめると、「赤ちゃんという命根を愛という心で大切にする」という「いのちとこころの関係性」を、
全生命にまで広げてるなかで「人間はどこでどういう線引きをするのか」という「いのちを扱う重要な位置にいる」と自覚する必要があるのではないかということです。