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2020-08-24 21:01:00
改訂【ひとは死なない❣️(華厳経、唯識派)】
【ひとは死なない改訂】
私たちは、「現象」を「五感」という感覚器官で受け取り、「脳」によって「各人」の「世界観」に置き換えられます。
ここで「脳による」ということについて、「各人の経験やDNA」によって「世界観」はじつは全く違うといえます。
「視覚」の一点を取ってみても、凹凸のある「網膜」に取り込まれた光の映像は「上下逆に写り」それを「脳の経験値やDNA」による反応によって「反転させて」、「これはスマホ」というように理解をします。
けれど「認知症」のような極端な例に関わらず、じつは「各人」が違う世界観に置き換えているといえます。
これは他の感覚器官でも同じであり、その「脳内」で起こることは「宇宙的な全体世界」と密接に関連しており、「個人と宇宙(自然法爾)」において成立することです。
つまり「すべてが電磁波」であったり「振動」であるなら、存在物のすべてに「原子レベルの振動」が常に「わたしの脳内の世界観」に影響を与えているということがわかります。
そしてそれらは「人同士や人と物」の間でも起こっているといえるのでしょう。
そういう意味において「すべての存在は常にあり続ける」ということが導き出されます。
壊れた「物質」でも「わたしの脳内においてあり続ける限り」脳内において「振動として」あり続け、それが「宇宙的振動に影響する」ということになります。
これが「他者との関係」においても同じであるといえるので、「死」という壊れたように思える肉体においても「誰かの脳内における振動」としてあり続ける限り、「死んだ人は宇宙レベルで生き続ける」ということが成り立ちます。
こういったことが「華厳経の一即一切」に明かされているのかもしれません。
わたしの「生命体が持つ世界観のなか」において、「死んだら何も残らない」「死んだら終わり」と考えるのは「不適格」といえるのかもしれません。
上記のように考えていくと、「わたしの世界観」は宇宙レベルと永遠の時間軸のなかにあり続け、「生命の本質」はわたしの認識を超えて存在するといえるでしょう。
つまり「生命」は死んだりするのではなく「永遠の時間軸と次元」のなかで存在し続けているといえるのかもしれません。
そういう観点から思考すると「誰かの生命体」が日々「怒り」の中にいるとすると、その生命体の振動は「怒りの永遠性」に住することになり、「愚痴の生命体」は「愚痴の永遠性」に住するといったことになるかも知れません。
そういう意味で「さとり」を求めて日常に「仏の智慧と慈悲心」で生きることが「その生命体が悟りの永遠性に住する」ことになるといえるでしょう。
これが「キリスト教の愛の神の世界観」でも同じであるといえます。
そういう意味で私たちは日常的に「高次元の永遠性を求めることでそういう振動の世界観をもった次元に、いまから住することになる」といえるので、「高次元の精神世界に生きること」が重要なのだと「覚者」が、、
その時代に応じた表現で伝え残してきているのだと目覚めさせてくれているように感じ、世界観の広がりを体感しています。
※科学において「振動=揺らぎ」とも表現されます。
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人間ひとりひとりが「同じように同じ世界を生きていない」ことは、
先ほどの視覚についても明白です。
わかりやすいのは「認知症」と言われるひとは「普通」と言われるひととはまったく違うことです。
また「催眠術」をすれば、「いくらでも五感の認識すべてを変革できる」ということはカルトを考えればわかることです。
記憶すら曖昧だということも心理学や脳科学ではあたりまえと言われます。
わたしたちはすべて違う世界にいます。
では「正常」というのは、どういうことかといえば、、
人間のなかでパワーバランスが強い人たちが決めた世界観に負けてしまった人たちが、その強いパワーの人たちに合わせて認識しようとして出来上がっている世界観です。
そういう意味では、たとえば「自閉症」ではなく、正常とする人たちには見えていない世界が認識できることを表現できるひとをいい、「健常、障がい」というパワーの世界観に負けないひとなのです。
精神障がいは、正常とするパワーに同調できないひとが、パワーの強いひとの世界観が間違っていることを表現できるひとたちです。
そして「家族、夫婦」は、少なくともその関係の中で「同じ世界観を共有できるひとの世界観の単位」です。
《ポイント》
そして「生死の基準さえもパワーバランスによって世界観が決められて」います。
「脳死だとか、心臓死だとか」を死だと決めているのはパワーです。
パワーに負けなければいいのです!
つまりわたしにとって、実は「実母は死んでいない」ということです。
「無常無我」はもっとも人間がなるほどと思える世界観で、
じつはそれさえも無視しなければ、真実の世界観(観察)には至らないのです。
ここにじつは仏教(唯識など)の深さがあります。
この世界観によって覚者は「瞑想」から、自己の世界観が認識できるようになるのです。
そうすると時空に関係なく、どの世界も現実認識できます。
とはいえ、あえて瞑想までせずとも、理がわかればだんだんと認識できます。
たとえば「お前は死んでも死なない」と「伴侶など」にいえば、この世界観を共有できます。
先の文章のように、すべては死なない壊れないのです。