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2020-09-09 00:18:00
初地からの歩み‼️(法蔵菩薩道)
正定聚。
これを初地ではなく
「等覚」に定義する論は「行文類やそれ以外」にもほぼ出てきません。
なのに、正信念仏偈に、「成等覚証大涅槃」といきなり《初地=等覚》とでてきます。
これは、「初地から十地」をすっ飛ばして、等覚に至るということですが、
十信、十住、十行、十回向から十地の初地である第41ランク目を
第51ランクに「等しい」と定義しているのです。
それは、初地は「不退転」だから「等覚」に等しいということだ
と推察されるのですが、
これが、この講義の[2–19]のなかほどに記述した、
親鸞においては「夕べからだんだんと《フェードアウト》して滅度に至る」と
書いた理由でもあります。
「初地から等覚への歩み」こそ《念仏行者》のすがたであるといえましょう。
そういう意味では、「いまのわたしは7地ぐらいかなぁ」という風に
念仏行者として歩むことが、「行」の《現実論》といえます。
もちろん煩悩を所有する「肉体」が滅せば、「無条件で正覚」であることは、
すべての存在が等価(平等・同じ)です。
また弥勒は、あえて五十六億7千万年のちまで、成仏しないという菩薩です。
そういう意味では、法蔵菩薩の「不取正覚」と同じかもしれないのです。
つまり「わたし」が成仏するまで成仏しないという《菩薩のあり方》です。
法蔵菩薩は「垂迹」でいすから《元は仏、如来》であり、
十界でいえば、菩薩は〈第9ランク〉ですから、
真如より来生した「法蔵菩薩」が、
わたしが「諸仏称名からわたしの称名」になった正定聚に至った時点で、
「法蔵菩薩の願行の道を歩むもの」となって、
「等覚」に誘導されることになるのである。
と推論できます。
ここで、弥勒菩薩は「一生補処」という五十六億7千万年のちに
最後の生を終わって、正覚という完全なさとりに至るのですが、
「正覚」に至った時点では、そもそも《正覚=すべて一如》ですから、
この時点では、もはや「わたしもあなた」も同じでしかあり得ません。
ですから、【現実的には等覚に至ることが、今のわたしの究極】になります。
そういう点でわたしが「今、一生補処(浄土住在)であって、
このいのちが入滅することで正覚となる」のです。
ここを「死ねば」と表現するのは不適切です。
なぜなら「等覚に至るようになるということ」は、
「生死を無分別智で生きる身になり、どちらも同じ、
大宇宙(真如)における状態の変化でしかない」といのちのありようが
見えてくることなのです。
このことを「生死出づべき道」と言われています。
この文言の「生死」の問題は、「生きるか死ぬかの問題ではなく、
生死分断する煩悩思考《虚妄分別》の問題だ」と
仏智によってわかるようになるからです。
生死を分断する、《二元的思考が苦を生む》ということです。
[健康と病気」「勝つか負けるか」「金持ちか貧乏か」etc.
どういう状況でも分別を超えた
「さとりが《観察》できるようになっていく」のです。
また、「草木国土」(唯信鈔文意)も「蜎飛蠕動(虫)」(異訳の大経)
も真如であると見えてくるのです。
ですから、現実的には、この現生において、初地から”いかに等覚に至る”
【念仏行者になるか】ということが【重要ポイント】です。
この点で、親鸞は《正信念仏偈》に「行者の究極」を示して、
「初地から等覚へのプロセスの重要性」を述べています。
しかし、教行証文類以外を見ても、それほど、《弥勒と同じように等覚である》
ということには、触れておられないのです。
あくまでも「生死を分別せず」今、念仏行者として、
「方便の無碍光如来の法に生きて、究極のさとりである
《空性、真如》に至るまたは《近づく》=《ウパーヤ(方便)》か」
ということが【重要な実践】なのです。
従来のように「名号のはたらきにより、初地なんだけど等覚」です。
といった論を無視したうえに、現実から遊離したファンタジックまたは
スピリチュアルな教えではなく、
かなりな《現実論》であるといえます。
☆ただ地球の寿命は、地球が地球として存在できるのは、
17億5000万年後という説ですから、
弥勒菩薩さんはどこに現れるんでしょうね(≧∀≦)