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2021-01-07 23:34:00
念のため【ここは重要】
「偽」は、「人の為」と書くとよくいわれますが、
これは「人為」というのが本来のようです。
「人為的になにかを為すこと」を「自力」というのです。
ここでわかるのは、、
【真実】は「自然の法」[自然即無我に至ること=利他力自然による礼拝(屈服自我滅)による讃嘆]
【仮】は「さとりへの自我行」(自我力行)
(発菩提心修諸功徳至心発願欲生我国=第十九願=さとりが真の楽を得ると知って[諸行をする])
(聞我名号係念我国植諸徳本至心回向=二十願=さとりが真の楽を得ると知って[自我力念仏をする])
【偽】は「人為的救い」
つまり、「さとり『以外』の救いを説く教え」(仏教以外=外教)という種別です。
化身土文類は「この論点を明確」にして「真実への誘引」が「自然の法」によって成され、
それは、「外教を含めたすべてである」という内容に広められているというポイントが、、
「化身土文類の本巻」が「仏教」
「化身土文類の末巻」が「外教」となっていて、
ラストが「もし菩薩、種々の行を修行するを見て、善不善の心を起すことありとも、菩薩みな摂取せん」と。
結ばれている「理由」でもあり、
この菩薩は「一切菩薩即[法蔵菩薩]の一菩薩」ということであるといえます。
つまり「この教えは人為的救いを説くもの」も「世界宗教も」すべて「その根底は《自然と無我》に至る誘引」から「摂取のため」に「無色無形絶言」「無碍光」の真理から「出ている」という側面と、、
だから「可能な限り、無碍光の真実を行じるもの」になるようにという「深意」があると読むことができなければ、、
「救いの本質が《全宇宙的》であり、十方衆生への自然の法である」とはいえなくなるでしょう‼️
「自然」には「利他力」という「智慧と慈悲」が自ずとある。
これが「完結しない《菩薩》という位置」から「摂取す」という、、
[教行証文類に論じて来た法の結論]であるといえるのです。
【観察行】について。。
昨日「お尋ねがあったので記述」します。
「観察行」について、「五念門でも五正行でも」《なにを観察するのか》ということについて、、
[一切の仏性]であり、「自然と無我」=「有為の根拠である無為」だということを定義しています。
[仏性=功徳]と観れば「苦」もまた「功徳を観る真実の糧」といえます。
[日常の混沌とランダムな出来事が整然と荘厳されている]と観察できると、
見えてくる現実が整然とした「自然利他力の智慧と慈悲の世界」だと観えるのです❗️