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2021-09-03 00:44:00

論が立つのか?

「論が立つかどうか」

わたしは、ものごとを認知する時に、この基準をよく用います。

 

たとえばワクチンを打てば大丈夫!

 

という思考について、ワクチンを打っても、「ウソだとしても複数のコロナ株があるという場合」、さらに株が生まれる可能性も考えれば、「今のワクチンを打っただけで大丈夫とは言えない」という論が立ちます。

 

コロナで死んだ人がいる。

 

という情報があっても、どういう人がどういう処置を受けて亡くなったかということが明確でない以上、論が立ちません。

 

このように論が立つかどうかということで、どうすべきかを考えます。

 

また「統計」というような、いつ、どこで、どういうひとを対象に、どういう仕方で取られた統計かということが明確でない以上信用に値しません。

 

つまり推論する場合にも、複数の事柄(証拠)から結論を導く「演繹法」による方が良いのか。。

 

また、ある結論的仮定や事実に基づいて「証拠」を集めていくような「帰納法」による方が良いのかということも考えます。

 

たとえば「誰かが怒っている」という場合にその理由がどこにあるのか推論するときにこの帰納法は有効です。

「わたしが怒らせることをしたのか」「何かの八つ当たりか」「世の中や会社などへの不満のエネルギーをいい易いわたしぶつけているのか」といった論が立ちます。

 

そしてその中で妥当だと思われるものを採用して、その怒っているひとを理解します。

 

いずれにせよ、どういったことにせよ、より「論としての整合性が高い」ときに、その論に基づいて、どうすべきかという判断をします。

 

そもそも、コロナはイギリスとフランス(ソロス財団)が持っている武漢のウイルス研究所で意図的に作られて、撒かれたというのは、限りなく100%といっていい証拠データがあります。

 

このようにこれが意図的に撒かれたウイルスならば、「撒いた人が罹っても問題がないウイルス」だという論が立ちます。

 

しかし、ワクチンは「打つか打たないか」が自己判断による以上、ここに何かがあると推論することはできます。

 

そして副反応が多いというデータが出ている「ファイザー」よりも「モデルナ」が良いといっているときに「モデルナに混入物があった」という報道が出るということには、あまりにもタイミングが良すぎるという側面から、不自然さを感じるのは当然でしょう。

 

なんらかの恣意的なチカラが「ファイザー」を儲けさせようとしている。

ファイザーを打たせようとしていると推論ができます。

 

しかしこれはあくまでも推論でしかありません。

この推論を受け入れるかどうかは自己判断に寄ります。

 

わたしはこのように、論が立つかどうかということにより日常的に判断をしています。

 

こういう判断基準は「確からしさ」がどの程度正確かということは言えませんが、コロナ以外の日常的な多くの場合において有効です。

 

つまり、「振り回されたり、揺らぐことがない、パニックにならない」といった有効性があるのです。

 

ほぼ常に冷静でいられます。

 

ただ、感性を大事にする場合の邪魔になることはありますから、適度な感性を大事にすることも必要でしょう。

 

論が立たなくても受け入れる必要があることも多いものです。