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2021-09-11 04:48:00

いまさら‼️

ここまでさまざまなことが明らかになってきているのに、いまさら「唯物論」だの「唯心論」だのと分ける意味があるのかどうか疑問を持っています。

 

すべてが素粒子の集合体だというところから、人間やいのちを考察することは唯物論で、そう言った素粒子などを考慮せずに人間やいのちについて考えるのは唯心論であり、その両方からのアプローチが必要かどうかなんていうことすら、現代の定義には当てはまらないと考えています。

 

認知症になれば認知に異常が出てくるのは確かであり、それがその認知症の人を見ている「わたしの認識によってある」といった見方には無理があると思われます。

 

もちろん「統合失調症の人」のいうことにもなんらかの意味があるという観点で、統合失調症の人が表現している意味内容を理解することは可能です。

 

こういった姿勢は「ユング」という精神分析学の開拓者が持っていたものですが、とはいえ、そこには必ずと言っていいほど「分析者の意図や無意識の観点」はそこに入っていると言えます。

 

つまり相手がどんな人であれ、対象者を正確に知ることは不可能と言えますし、自分自身を知ることも同じだと言えるでしょう。

 

だからといって、正確に知ることは不可能なのだから、そういう努力をやめるのではなく、不可能であれ可能であれ、その努力をする過程の中で起こってくる現象や意味について、それまでと異なった目覚めや発見があると言えると思うのです。

 

こういったことが、唯物論なのか唯心論なのかなんてどうでもいいことであり、どういった方面からにおいても可能な限り人間やいのちへの理解というのは行われるべきでしょう。

 

またそれらはすべてにおいて、人間やいのちにとって根本的な不利益になっては危険であるという認識も必要です。

 

便利だからといって、環境破壊をするようでは困るのです。

「地球といういのち」を人間が破壊することは、「人間といのち」について大いなる不利益でしかないのですから、危険だという認識は必要です。

 

ひとは、それが唯物論か唯心論かなんていう議論よりも、目の前のいのちとどう関わるかということを大事にせねばなりません。