インフォメーション(日々更新中)

2021-09-20 00:40:00

未完に居直る‼️

因果を分析した、倶舎論によれば「無為法」は因になりません。

よく「なぜ死ぬか?」それは生まれたからだ、という誤った法話を耳にします。

 

これは、無常であるから死ぬと言っているようなもので、無常が因で私という果を招くと言う事は論が通りません。

 

それは無為法である無常と言う理は、生死関係なく存在している理法からです。

 

因果論によっても、私の力に仏の増上「縁」が加わって、増上果を得ると言う因果でなければ、理法に叶わないことになってしまいます。

 

ですから、阿弥陀仏が無為法であるとするならば、阿弥陀仏から賜った信心が因になるとは言えないのです。

教行証文類の行文類に「信力増上縁」について述べられています。

 

私の自力では、悟りに至らないからといって、現世において何もしないと言うことにはなりません。

そういう観点からも親鸞と言う人は、その生涯を法蔵菩薩道として歩まれていると理解できます。

 

ただ、現世に置いて法蔵菩薩道を歩むことが難しい人に対し、本願成就文と言う根拠に置いて、念仏に身を投じる事で悟りと言う果を得ると言うストーリーが信文類に別立てしてあるのでしょう。

 

当時であれば、学問も経験がなく、論理を立てると言うこともできず、論じを理解すると言うこともできない人たちのために、この信文類があると考えなければならないでしょう。

 

当時と違い、現代の私たちは、論立てを理解することができる時機に生まれているのですから、行文類を無視して、何もしなくて良いと言う「信文類のストーリー」をそのまま持ち込むと言う事は全くナンセンスであると言わざるを得ません。

 

なぜ親鸞と言う人が、法然と言う人を超えて、観経ではなく大経を中心にされたのかと言う理由がそこにあると思わざるを得ないものなのです。

この世で何もしなかった人が、死んだら突然スーパーマンみたいには変われないでしょうから。