インフォメーション(日々更新中)

2021-09-30 18:24:00

哲学‼️

【逆説的ですがら宗教的、哲学的な思考を持つ人は幸せになれない、その世界に没入することは危険なことでしょうか?】

 

昭和の高度経済成長時代あたりに、デカンショ節と言う歌が流行りましたが、デカルト、カント、ショーペンハウエルと言うような哲学者を表していて、哲学に没頭ししている人を揶揄した歌でした。その時代には、哲学何かやっていたら、自殺する人が増えるといったプロパガンダが流されました。

 

また、日本の純文学なども、自殺を引き起こす要因になっていたと言うことを持ち出して、深く人間について思考することを避ける傾向をあえて作られたと私は認識しています。

とは言え、昭和のこの時代に、新しい宗教がたくさん生まれました。

 

これらは比較的人間に対する思慮よりも、健康、平和、富と言うご利益を目的にした宗教がほとんどでした。こういった宗教は当時非常に乱暴な方法で信者を増やした団体もあり、「新興宗教」と言って社会的には好まれない組織団体と言う認識が日本人に生まれてきました。

それを決定的に「宗教は社会的に問題である」と思わせてしまったのがオウム真理教です。

 

また、規制宗教団体の僧侶などが比較的ゆるかったので、規制宗教団体がマインドコントロールすると言う事は全くと言っていいほどなかったと言えますし、「古くからある地域」(ムラ)においては、神がかりの霊能者、イタコのような方がおられ、そういうところに見てもらうと言う事は日常的にありましたが、これは、家を立てたりするときに方角をどっちがいいかとか、不幸が続いたときに、何か霊がとりついていないかといったことを見てもらいに行っておられたといったもので、ほぼ社会的には無害でした。

しかし、時代が現代のような時代になって、こういった霊能者型のお仕事が減って、どんどん消滅していっておられるようです。

 

話は哲学から少し離れましたが、日本においてはこういったことが同じ次元で語られることが多いので、あえて言及しております。

 

哲学は、本来的に子供の頃に、誰しもが思うように、「なんで生まれてきたの?人間は何のために生きるの?」といったことを、生活する上で無意味であると吹き込まれて、だんだんそんなことよりもお金を儲けることの方が大切であると言う資本主義洗脳によって、「思考停止してきた事柄」を追求する学問であると思っています。

 

いくら思考停止したところで心の中にこういった哲学的な思いを持つ人は多いようで、現代の新宗教は、「なぜ生きるか」といったことをテーマにして信者さんを勧誘しています。

 

やはり人間にとって、こういうことは誤魔化し切れないものだと思うのです。ある70代のお年寄りが、「私の人生は何だったんだろう」と言われたことは印象深く私の心に残っています。

 

若い間は、チャラく楽しく生きていてもそれほど問題じゃないのかもしれません。しかしだんだんと人生を生きていくと、ほぼ必ずと言っていいほど虚しさだとか切なさとかそういった気持ちに襲われてくるもののようです。

そして、あの子供の頃の「何のために生きてきたのか」と言う問いに戻っていくようです。

 

哲学と言うのは、そもそも人間が生きると言う事について考えるものが多いので、何かの哲学に染まると言うことではなく、哲学的思考を持ちながら日々を過ごすことによって、日々起こっている現象や出来事が、普通に生きる以上に深く味わっていけると思っています。

例えばそれが宗教であったとしても、カルト的なものでなければ問題はないと思います。

 

何にせよ、没頭しすぎる事はあまり好ましいことではありません。例えば、遊びでも、仕事でも、政治でも、何につけ没頭すると言う事は、周囲が見えなくなることであると言えるので哲学に限らず視野を狭く持つ事は好ましいことではないといえます。

 

ですから、こういう情報がたくさんある時代に、1つの項目だけで没頭せずとも、哲学的思考と言うのは、人生を深く味わうのに役に立ち、何らかの回答や知恵を与えてくれるので、必要のない事柄ではないと思うものです。