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2021-10-17 20:05:00
仏教3テーマ‼️
「無為」ただ在るのみ。。以上‼️
「仏教の本義とさとった状態」
「在る」というところに「苦はない」
じゃあなぜ「利他」るか。。「在るという状態がいいと思える人を増やす」ことを、
【「在る」になった方が「楽」だよ】と「在る状態」から「遊び」として行なう❣️
「遊煩悩林。。。」である‼️
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脳は電気とホルモンによって成り立っていて、電磁波を出している。
電磁波の多いところでは、ノンレム睡眠に入りにくくなる。
脳は電磁波を受け止めてもいるのだから、少なくとも良い電磁波のところにいる方がいい。
ケンカしてるとかトラブっているような人のところや電話でケンカしてっるとかっていう電磁波などのあるところは避けたほうがいい。
実際私はそれらを感じ取る能力が強いので、都会の人には気をつけていただくことをお勧めします。
東京行くと、新幹線あたりから、かなり電磁波を感じ、東京にいる間はかなり疲れます。
電磁波で。。
電磁波も穏やかな電磁波であればとても安定します。
寺にいても、近隣の人の脳波を感じて時には疲れます。
皆さん何か考えたり感じる時には、前頭葉に意識を集中させ、
扁桃体(間脳や延髄に近いので動物脳に近いのでおよそ論理的ではなく感情的になる部分)に、脳の電流が流れるのを抑制した方がいいですよ!
ご参考に。。
ーーーーー
仏教は科学か?
仏教はもともと真理を求めたブッダに始まり、大乗仏教に至っても、存在論や時間論、宇宙論などと、現代物理学と同じテーマを探求しています。
この量子論に書かれている内容が、大乗仏教の祖とされる龍樹という人の「空論」いわゆる「般若経」についての論にある時間論、そして龍樹に次ぐ大乗仏教のもう一人の祖である世親(ともにインドの人)の唯識論(存在の全てが認識によるというもの)など、仏教の論と合致します。
そういう意味で本来の仏教を一般の方は、宗教という枠にくくりますが、まともな僧侶は科学とはいかずとも哲学として捉えていますし、事実仏教は東大でも、京大でも「インド哲学」とあつかわれます。
ですから〇〇仏、〇〇菩薩っていうのは、現代のように教育を受けている人がいない時代に、どう説明すれば、多くの人々が真理を探究できるかということから考え出された方便なんです。
そして、人々がその方便を通して個々の我執が捨てられることになり、多くの人が真理をさとり、苦悩が滅して、真理と一体化した境地を生きることができる。
という、科学であり哲学、心理学なんです。
ですから仏教の説く内容は、量子論の量子の組み合わせが存在であるという基本と、シュレーディンガーの猫や不確定性原理、多元世界(パラレルワールド)などとさほどかわらないのです。
ただ哲学の領域を出ないのは、数値化しないからです。
だれかめんどくさがらず、仏教に説かれることを物理学のように数値化すればいいのですが、医学でも多くの人が興味を持たない、生死にもかかわらない病気を研究する医学者が少ないように、仏教学者も仏教を数値化しようと試みる必要もなければ、したところで人の生死や仏教自体が変わるわけでもない。
だからする必要がない。
量子論だって興味のない人が多いので、多くの人は「量子ってなに?」という領域を超えようとしませんが、物理学というくくりですから、その業界では認められますが、仏教界で、仏教を数値化したところで、理解しようとする人は少ないし、それにかかる経費や人材がない。
でも仏教は数式化できる内容であり、物理学や心理学、宇宙論など、全ての総合理論として、単なる科学以上の学問になるでしょう。
仏教と現代科学で、理想的な人間のモデルとなるアンドロイドも作れるでしょう。
プログラムの内容をさとりというゼロへの1と0(ONとOFF)のプログラミングをして、アンドロイドの向かう意思をゼロへ向かうための意思(智慧)として組み込みます。
そしてアンドロイドに「数式化」した「慈悲」のプログラムを組み込み、多くの人をさとりのゼロへ、ともに向かうようにすればいいのです。
この智慧と慈悲について、まずさまざまな統計を取ることから数値化は始まるでしょう。
どういう見方があるか、どういう時にどういう感情になるか、そういったことを多くの前提を元に数値化します。
そしてそれらがどうアプローチすれば、智慧と慈悲という(知と情)になり、さとりへ歩み出すかということを数式化します。。。
とはいえ現在の仏教学者がこんなめんどくさいことをするわけがありません。
しかしこれをやることができれば、仏教は科学になるんです。
そういう意味では科学者の方が「仏教は理解できる」とよくおっしゃいます。
しかし仏教の智慧(智慧という字は、雑草を払い明らかに見るという意味で、雑草は煩悩を意味しますから、仏教はこの文字を使います。)と慈悲による輪廻の解脱という側面まで数式化することは「臨死体験のデータ」の収集など困難を極めます。
そういう意味では仏教は、科学が今後証明するであろう世界を先取りしていると思っています。
ということは仏教は仏教でしかあり得ず。
科学でも哲学でも宗教でもない、「仏教」なのでしょう。
ちなみに最近の「宗教」という言語は「訳の分からないことをも信じる」とか「怪しい」というニュアンスがあるので、「仏教は宗教でもない」とここでは定義しています。
ですから〇〇仏、〇〇菩薩っていうのは、現代のように教育を受けている人がいない時代に、どう説明すれば、多くの人々が真理を探究できるかということから考え出された方便なんです。
そして、人々がその方便を通して個々の我執が捨てられることになり、多くの人が真理をさとり、苦悩が滅して、真理と一体化した境地を生きることができる。
という、科学であり哲学、心理学なんです。
ですから仏教の説く内容は、量子論の量子の組み合わせが存在であるという基本と、シュレーディンガーの猫や不確定性原理、多元世界(パラレルワールド)などとさほどかわらないのです。
ただ哲学の領域を出ないのは、数値化しないからです。
だれかめんどくさがらず、仏教に説かれることを物理学のように数値化すればいいのですが、医学でも多くの人が興味を持たない、生死にもかかわらない病気を研究する医学者が少ないように、仏教学者も仏教を数値化しようと試みる必要もなければ、したところで人の生死や仏教自体が変わるわけでもない。
だからする必要がない。
量子論だって興味のない人が多いので、多くの人は「量子ってなに?」という領域を超えようとしませんが、物理学というくくりですから、その業界では認められますが、仏教界で、仏教を数値化したところで、理解しようとする人は少ないし、それにかかる経費や人材がない。
でも仏教は数式化できる内容であり、物理学や心理学、宇宙論など、全ての総合理論として、単なる科学以上の学問になるでしょう。
仏教と現代科学で、理想的な人間のモデルとなるアンドロイドも作れるでしょう。
プログラムの内容をさとりというゼロへの1と0(ONとOFF)のプログラミングをして、アンドロイドの向かう意思をゼロへ向かうための意思(智慧)として組み込みます。
そしてアンドロイドに「数式化」した「慈悲」のプログラムを組み込み、多くの人をさとりのゼロへ、ともに向かうようにすればいいのです。
この智慧と慈悲について、まずさまざまな統計を取ることから数値化は始まるでしょう。
どういう見方があるか、どういう時にどういう感情になるか、そういったことを多くの前提を元に数値化します。
そしてそれらがどうアプローチすれば、智慧と慈悲という(知と情)になり、さとりへ歩み出すかということを数式化します。。。
とはいえ現在の仏教学者がこんなめんどくさいことをするわけがありません。
しかしこれをやることができれば、仏教は科学になるんです。
そういう意味では科学者の方が「仏教は理解できる」とよくおっしゃいます。
しかし仏教の智慧(智慧という字は、雑草を払い明らかに見るという意味で、雑草は煩悩を意味しますから、仏教はこの文字を使います。)と慈悲による輪廻の解脱という側面まで数式化することは「臨死体験のデータ」の収集など困難を極めます。
そういう意味では仏教は、科学が今後証明するであろう世界を先取りしていると思っています。
ということは仏教は仏教でしかあり得ず。
科学でも哲学でも宗教でもない、「仏教」なのでしょう。
ちなみに最近の「宗教」という言語は「訳の分からないことをも信じる」とか「怪しい」というニュアンスがあるので、「仏教は宗教でもない」とここでは定義しています。