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2022-07-04 07:19:00
五念門と五果門(復習)‼️
156ページから。
「五念門」というのは、浄土論にある、「礼拝、讃嘆、作願、観察、回向発願」のことで、これらに対象する「果」を「五果門」といい「近門、大会衆門、宅門、屋門、薗林遊戯地門」をいいます。
これらを法蔵菩薩を含めた「菩薩の行」として、「浄土論註」によって説明記述されます。
156ページからこの「五念門」を詳しく説明されます。
まず、
「無碍光如来を念じて安楽に生ぜんと願ず」と
ここでの名号は「帰命尽十方無碍光如来」であり、
「帰命」は礼拝門で「尽十方無碍光如来」は讃嘆門と定義されます。
ここから「礼拝」について説明されます。
156ページの9行目に、一般的に「礼拝」といっても「恭敬」もあって、必ずしも「帰命」ではない。
しかしここの礼拝は「帰命」であるといわれます。
ここに「彼此あひ成ず」とあるように、仏とわたしがひとつになることであると帰命礼は「五体投地」のように、自らを放棄して投げ出すことであると、礼拝は「無我」と同じであると記述されます。
そして、「尽十方無碍光如来」を浄土論の偈文の後の論説(長行じょうごう)から、「讃嘆門」だと定義して、まず「称名」について(詳説)される中で、(称の字は《軽重を知る》《秤と同じ》として、「唱」との違いを明確にされています。)
ですから真宗の《しょうみょう》は[称名]と書くのです。
157ページに「光明智相」のごとく、かの「名義」のごとく、「実」のごとく、修行し相応せんと欲うがゆえに、
とあり、ここにある「名義」を「南无阿弥陀仏のいわれ」と解説されることも多いのです。
しかし、教行証文類において、この段階では、名号は「帰命尽十方無碍光如来」ですので、光明智相、名義、実を通して讃嘆門と定義されるのは、「大経の十二光」なかでも「無碍光」であるとするのが適切です。
ですから3行目に「尽十方無碍光如来」とのたまへり。
と記述され、「如来の光明智相の如く」讃嘆する。
と定義されます。
この「光明智相」こそ、さとりの智慧を光明で表されている【重要】な文言です。
そして「願生安楽国」を「作願門」として、天親菩薩の「帰命」の意であると抑えられていることも【重要】です。
「願生」が「如来の願を受けてわたしの願」となる意が内在されるからです。
【この次に重要な問答があります】
《親鸞が「浄土教は仏教であるという論拠」を記述されているからです》
157ページの中ほどに「問うていわく」とあり、仏教経典のさまざまなところに「衆生畢竟無生にして虚空のごとし」という、根本仏教も中観派も、その他すべて仏教は「無我、空、真如無分別」を説いているのに、「生まれるという表現はおかしいのではないか」という問いがあります。
この答えとして、「衆生畢竟無生にして虚空のごとし」と説かれているのに、「2通りある」として、
1つ目に「凡夫が、衆生(存在)を実存と思うように、凡夫が生死があると錯覚している観点からの《生まれる》ということである、しかしこれは亀に藻がついているのを亀毛といっているような、「所有なけん」つまり「あるはずのない間違った見方」であるといわれています。
ですから、このような見方は「亀毛のようであり、虚空のようなもの」であると定義され、ここでいう「願生」の「往生」は、「凡夫のいう《生まれる》」ではないと明言されます。
2つ目には、「諸法」は「因縁生」であるから、生まれるとか生まれないということではなく、「不生」であって、「あらゆることは無いというのは、虚空と同じである」と記述されます。
だから、天親菩薩の「願生」は、「因縁生」の意味でいわれていて、仮に「生まれる」と名づけているのであり、一つ目の凡夫がいう「生まれる」とは違うと明確にされています。
そしてつぎの問答で、「じゃあなぜ往生というのか」と問いを立てられます。
答えとして、
実存しない「仮の名で存在としている《仮名人》」であるわれわれが五念門を修行すると、
修行する前念と後念で変化するので、
煩悩界を生きていた「仮名人」が
浄土を生きる「仮名人」になった
という因果において一つ(同じ)であるというポイントを明確にするため「往生」という文言を使っているのであり、「行」が一つの流れで相続されることを明確にするためであると明言されます。
(ポイント)
この部分の原典(158ページの2行から3行目)に、「前念と後念と因となる」とありますが、脚注にもあるように、本来なら「前念は後念のために因となる」と読むべきなのになぜ、「前後ともに因」にされているのか。
ここに縁信心が、因信心になって「因果同時である」ということをあらわしてあると推論できます。
つまり、【親鸞の読み方は、往生は現世とか来世というものではない】という、重要ポイントがあるのです。
このような、親鸞の独特な読み方に内在される【重要ポイント】を「無視して」さらっと流しては重要な内容が抜けて「ありきたりな浄土教」になってしまいます。
30/11/03[2–5]
《浄土教が仏教である根拠》
158ページの6行目に、第一行の三念門を釈しおわったと区切られて、次の文言に入られます。
ここに「我依修多羅、。。。」と浄土論の偈文「世尊我一心、帰命尽十方無碍光如来、願生安楽国」について根拠を述べられます。
この根拠を「修多羅」によると記述されます。
これは「経典をよりどころ」にするということですが、
仏教の教えは「経典」などを「十二部経」といわれる分類に仕分けていますが、
その最も重要な「修多羅」によるとしています。
しかも、その修多羅のなかでも「四阿含」という、いわゆる「小乗の経典」やその他の『経、律、論の三蔵』までも差し置いて、「三蔵(経、律、論)」に該当しない「大乗の経典」であるというところまで絞っています。
その理由が、このあとの《真実功徳相》の記述になります。
158ページの終わりあたりから、この説明になります。
まず「功徳に2種類ある」という論調で、何度も出てくる「《凡夫》と《さとり》の2種について」功徳を解説しています。
凡夫の功徳は「顚倒(転倒)し、虚偽(うそいつわり)」であるから「不実功徳」である。
そして、菩薩の功徳は、「智慧清浄の業より。。仏事を荘厳す」として
「法性によりて清浄の相に入れり」とあり、
これがなぜ「顚倒(転倒)せずに虚偽(うそいつわりでもない」のかというポイントを
「二諦」によって、究極の結果として衆生を「浄」にいれるからであると解明しています。
ここの「二諦」については「法性(真諦)と言説(俗諦)」という前提で、
脚注のように「浄土の荘厳」というイメージは、衆生のイメージにあわせて「真如に導く方便」として「さとりの智慧を内在させて荘厳されたもの」だから、衆生が真如法性の真諦を体得するための《適切な言説によるイメージ》であるから、つまりは俗諦(方便)である
と、わかりやすく【浄土教が仏教である理由】を定義されています。
これは、「唯識派」の天親菩薩が、中観はもちろんのこと、さらに認識論から浄土を論じていることが明確になっているポイントでもあります。
現実の中で、浄土の荘厳を経典にあるように認識できるようになるための行が「五念門行」であるということです。
これが「唯識論」による【観察門】であるといっているのです。
これを石泉学系では「現実の中に浄土が現映する」などと表現されて、現生と死後を分断しない「一如」に相応した「仏教としての浄土教」を解明しています。
このように、159ページの中ほどに至って、なぜ「浄土教」が「仏教」と相応するかという課題を解析して、解明されている重要な部分です。
《十二部経》
https://r.goope.jp/sainenji/free/hodoku
30/11/04[2–6]
159ページの中ごろに至って五念門中の四門まで解説されました。
そして、「いかんが回向する」から第五回向門の解釈です。
ここに「苦悩の衆生を捨てず〜回向を首として大悲心を成就することを得たまへるがゆえ」
と記述されたうえで、わたしたち衆生に「大悲心をもって与えるのは往相還相の回向」であるという大悲の内容を「さとりへのベクトル」であると定義しています。
そのうえでなおかつ、「作願して《ともに》阿弥陀如来の安楽浄土に往生せしめたまへるなり」と、《ともに》さとりに向かう[往生]という方向へ進むという状態が「回向(発願)」であると明確にされています。
ここでよく使われる「回向を首としたまひて、大悲心をば成就せり」という和讃の定義が、法蔵菩薩とともに「さとりに向かう」ということであると定義されていることを見逃してはいけません。
30/11/05[2–7]
150ページの【20】からは道綽の安楽集の引用ですが、これはここまでの論拠のうえから、ほぼ「念仏を勧める」譬え話ですので、さらっと飛ばします。
ここでいう「念仏三昧」は「五念門、五果門」の集約とみてよいでしょう。
わたしはあくまでもこの時点での念仏三昧は「帰命尽十方無碍光如来」と見ますが、
「南无阿弥陀仏」が一般的でしょう。
そもそもここの安楽集の出だしが、「観仏三昧経」の引用ですから、
そういう点では「南无阿弥陀仏」の方が適しているのでしょうが、
演繹的推論では、ここも「帰命尽十方無碍光如来」で抑える方がスムーズですし、
いきなり「阿弥陀仏」にチェンジする必要もありません。
いずれにせよ、この引用で注目すべきポイントは【21】に現在の障を除いて〜念仏三昧を行ずれば、「現在、過去、未来の一切諸障を問ふことなくみなのぞくなり」の部分にも、仏教の時間論にまつわる記述があることです。
つまり、「現在の障(煩悩など)がさとりへと転じると、過去法も未来法も変化する」という内容です。
これを具体的にいえば、「現在の現実を念仏三昧によって観察」していると今までと「現実の解釈定義」が変わります。
わたしたちは、念仏三昧を生きるまでは、「むさぼり、怒り、愚痴」などの煩悩によって現実をみて、俗にどっぷり浸かっています。
すると、いろいろな物事が「障りや苦」だと思ってしまいます。
しかし、そんなわたしが「念仏三昧に生きる」と同じ現実が「浄土に見えてくる」のです。
もっと具体的に言えば「色々な出来事から自分の煩悩の愚かさを知らされて、そういう現実がさとりへの糧だ」と思えるようになるわけです。
そして「悔いていた過去やこれから訪れる未来の出来事も同じようにさとりへの糧だ」と思えるようになるので、「現在、過去、未来の一切の諸障が除かれる」という状態になるという念仏三昧による具体的な状態を明らかに表現しています。
【22】には「たとひ大千世界に〜。」など、よく使われる文言が出ています。
【23】には「無量寿仏国往き易くとり易いのに、外道に迷ってつかえてしまう」と外道に迷うことへの警告をされています。
次に、善導の引用に移ります。