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2023-07-29 18:48:00
部外者から!
仏陀は、いのちも何もかも「無常ゆえ無我」といいました。
つまり私という主体自体が幻想なのです。
けれど、阿弥陀如来という「方便の我」があって、私たちはその方便の「我」に、浄土という「方便の器世間」に導かれるということですが、「現生」も「妄念により認識されている器世間」ですから、教えのすべてが「妄念と方便」でなりたっているのは間違いないわけで…だから、一部の念仏者意外は絵空事のように「教えを語り」生きようも偽善的で愚痴に堕しているように実感するんです。
もともと寺生まれでも、真宗門徒でもなかった私は、得度の時から「疎外感」があり、布教使としても「一匹狼」にならざるを得ませんでした。
しかしなんとかやってきましたが、ええ加減都合よく利用されてるだけの状態がしんどくなっています。
布教の現場で「ちゃんとした話」よりも「お笑いや人情噺」を求められて、「ちゃんとした話」をすると「難しい」といって、住職さん自らが底上げをしようとされないことから、寄って集まれば経営の話しか、どこの坊さんがどうなったというような宗派内の世間話ばかりで、聞いててしんどくなるので、なるべくそういう集まりに出ないようにしていると、参加しないというペナルティのような扱いをうけるわけです。
どうぞ僧侶のみなさん、自浄作用と底上げを考えられますように、もともと部外者から僧侶になり布教使になったものからの観点を記述しておきます!!