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2024-01-06 22:53:00
神を信じる!
神を信じるということについて!
キリスト教などにおいて「神を信じる」にあたって、「信じているけれど、揺らぐこともある」というような曖昧さがあるのは、信じようとする気持ちが先走っていたり、クリスチャンだから信じていないといけないというような自責の念なんかがあるのかもしれません。
しかし、そのようなみなさんにお尋ねします。
「あなたは空気はあると思いますか?」
誰しもが「ある」と言われるでしょう。
では「空気の存在を信じますか?」といえば、
信じる以前に存在しているのだから、「バカな質問」に聞こえます。
では「神」はどうでしょうか。
創世記に神自身が「私はあるものである」という記述があるように、
空気のように「あるもの」なのです。
信じる必要がないほどの「あるもの」なのです。
(教学的には何にも依存せずにあるというような意味らしいので、空気とは比較にならないほどより私たちに依存せずとも存在するものと言えそうです。)
とはいえ、「イヤイヤ空気は証明できるけど、神は証明できない」ということを思われる方も多いことでしょう。
プロテスタントのルターは、「初めに言葉ありき」という重要なポイントを抑えられています。
私たちは、あらゆる物事や出来事を脳の中で「言語に変換して認識」しています。
つまり私が認識している世界は、全て「あなたや私の言語によって存在」しています。
結果、存在は「言語による」と言えます。
そういう意味では、ルターは、三つの「のみ」を提唱していて、
「聖書のみ」というひとつは、そこにある「言葉」により、神が「あるものである」ことを証明しているということを言っているように思います。
また「信仰のみ」は、この言葉から、空気の組成を知るように、神を知っていくことを意味しているようです。
つまり聖書の「言葉」によって、私たちの世界観が「ただあるもの」である神との「福音の世界に変わる」といえるでしょう。
そしてそういう生活や認識の中で「すべては神からの恩寵である」と見えるようになり、「恩寵のみ」ということが成立するのです。
以上のことから、クリスチャンは「ただあるものである神」を、聖書の言葉から認識していくことで、いろいろな困難にも「恩寵が込められている」という認識をもって現実起こっていることの「神的な理由や意味」を知っていく日々を歩みながら、ただある神の愛の深さを知っていくのだといえるでしょう。
つまりは、「信じること」より、ここにある「ただあるものによる愛」を知っていく道のりがクリスチャンの生活だといえるのではないでしょうか!
仏教の浄土教のように、明確に「方便」とされているものを「信じる」のは難しく、現代人のIQには届かないんです。
これを親鸞さんは正信偈に「難中の難之に過ぎるものはない」と記述して、
あの時代でさえ、「難」だったのです。
ただ時代背景からいえば、あの時代にはそもそも庶民の識字率は低かったのですから、IQの問題とは理由が違います。