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2019-04-19 05:08:00
Aの認識している世界
◯有はあるか?
説一切有部の論を「倶舎論」として、世親は「存在について五位七十五法」は有であると論じた。
しかし、龍樹は「我も法も空」であるとした。
そして存在は「仮和合」と論じたが、「和合する元になる」当時でいう「五大」は存在するのか?
五大も空であるなら、すべての存在を説明できない。
なんらかの有があって「存在」は成り立つ。
龍樹は、すべて「空」であるが故に、空もまた空であるから「空亦復空」と論じているが、
「空」も「亦復空」ならば、「亦復空」を成り立たせるなんらかの「有」がなければ、
「仮和合」すら起こりえない。
そこで、世親は「唯識を論じて」、「五位百法」の有を論じて、それは「阿頼耶識」に薫習される「種子」だとした。
これは量子論でいうところの「量子」であり「元素(原子)」であるといえよう。
また、「一般相対性理論」の「光の速度とそれ以外の速度」において観測される時間のスピードは異なるけれど、相対すると「同じ」と観測されるけれど、事実は「次元が異なっている」、つまりすべてのひとや存在は、まったく違う次元を生きているのに、同じであると錯覚しているということと変わりがない。
あなたがなにをどう認識しようと、それはすべて「あなたの認識」でしかなく、他の人は「まったく違う次元にいる」ということがわかっていないということを意味する。
そういうことを「唯識論」はいっている。
こういう論が「人間として生きていくうえでの世界観」そのものであるから、Aが感じている世界はすべてAの「世界観」でしかない。
昨日までに少しお知らせに書いたことは、Aの世界観のなかで起こっている「状態」でしかない。
だから、お知らせは、AがAに向けて「知らせたこと」でしかない。
こういう「仏教の論」は「真理であり」、「物理学も真理」であると言える。
Aの認識の中の皆さんはどういう「認識」を生きているのだろうか。