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2019-06-20 23:11:00
大橋牧師さま
わたしの体験で「以下のような内容につき」
「オマエは浄土真宗じゃないのか!」
「オマエは改宗したのか」といいますか?
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大橋牧師さま
このたびは大変お世話になりました!
神は居るのかいないのか?
「神がいるならその神は誰が作ったのか」?
いままで「こんなことを思って」いました。
そしてこれって、「あなたは自己の存在を証明できるかできないか」?
という「量子物理学」の「すべてが不確定である」という、
「シュレディンガーの猫」のような問いだと思っていました。
仏教で「存在は空である」は「非空」であり「非非空であり、非非非空である」と延々と続く「不確定性」でもあり、
数学で「24は偶数か」?という問いは「小学生」にとっては「簡単な問題」で、「数学者」には「難問」であるといいます。
それは、そもそも「24という数字が何に基づく数字なのか」によって、「解答が変わる」からといいます。
りんごが「24個ある」といっても、それらの「りんごが全く同じ」と定義できなければ、数を確定できない。
「長野県産か青森県産か?」「そもそも同じ産地で同じりんごの木」から取れたとしても、「糖度」が違えば「同じと定義できない」「全く同じ色と形状ともいえない」など「数字を定義するファクターが無限にある」からです。
わたしは今まで「神」も「私自身」も同じで「存在を確定するしない」のファクターは「無限に不確定だ」とボンヤリ思っていました。
しかしそれがこのたび「蒜山高原バイブルキャンプ」に伺ったことで「神の存在を確定してもいい」と感じるに至りました。
それは55年生きてきて、はじめて出会った「貴重でハイレベルな場」だったからです。
ホンモノの大自然の中に「自然をジャマせず、自然になじむロッジ」と景観が、さまざまな「自然の変化と静寂」を全身で感じさせてくれる。
そして、自然の中に「多くの次元」が広がっていることを、まざまざと見せ、感じさせてくれて「わたしもその中にいる」というリアリティが、「神レベルの意思によるのではないか」という「確定的な壮大さ」を思い起こさせてくれる「特別な場」だったからです。
人間という「不確定」な存在に「じつは重要な意味があるのではないか」と問いかけてくる。
また、そこに汚してはならない「生命の本源」を改めて大事にしなければいけないと思える「高次元な意識を想起させられる自然現象」があって「さながらオーロラを見るに匹敵する場」でした。
そして「穏やかであたたかいチャプレンご夫妻」との歓談が、そのお手本のように、わたしのアタマの中を「澄み切った空気とともに、新鮮で落ち着いた状態にして」くださり、心から感謝致しております。
手作りのお料理も「心のこもった美味しいお料理」でした。
「讃じても」言い尽くせませんが、ほんとうに、人生を変えていただきました。
ありがとうございました😊
中神(旧姓、中村)章生 拝
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この間「信文類」の《景教》について記述して、ここで「真実則」も「GOD」による「自我滅」と論が符合すると書いたのは、究極「なぜ 仏教が世界宗教にならないのか」?
にこのたび「蒜山バイブルキャンプ」で「いままで日本で感じられなかったほんとうの大自然」を感じたからです。
「空気がクッキリとして澄み渡り」「ゆえに月もクッキリ見えて」「周辺には何もなく」「テレビもない」「静寂」「電磁波もほぼ少ない」「真っ白なクモとブルーということばがふさわしい空」
「森林の香り」すべてがホンモノで、「自然をジャマするものや自然を超えて主張する建物もない」
なぜかなんにもなくていいと思える「不思議」な世界観‼️
キリスト教かなんなのか「名称すらどうでもいい」
なら、「神」の方が「ストレート」でフィットする!
日本の坊さんは「仏教を世界宗教」と教えられていますが、世界では「キリスト、イスラム、ユダヤ教」が世界宗教定義です。
まして、「こんな贅沢な衣体をつけている日本の坊さんは、ほかの仏教国では僧侶」と認めてもらえません。
わたしは、幼児期に鳥取市内で「福音ルーテル教会(プロテスタント)」の幼稚園に行っていたので「中村」という方(ほう)がわかるだろうから、旧姓を書いています。
蒜山高原は、まるで浄土を観察するが如くな世界観でした(≧∀≦)
大橋牧師さんは、神の意思を感じながら生きておられる。
これも「神によって無我になり、自然法爾に任せて生きる」ということと、
状態はまったく同じだと感じました❣️
文言の違いにこだわるような「狭い世界に閉じこもる」より「広く世界標準を知っていくことの大切さ、ふところの深さ」を僧侶が持つことこそが、現代には問われているのでしょう❣️
キリスト教にしろ、なんにしろ、広く受け入れられている教えには理由があって、
すべて「仏教の解釈」とも重なるので、牧師さんには「このようなメールを書き」ました。
なぜ「キリスト教の世界感で仏教の解釈ができるのか」ということが「無我、空、唯識」を知っていれば「真実則」の論でわかるはずなのです。
仏教を宗教と捉えると「わからない」、セクト意識が強いと「アレルギー反応」を起こす。
「信文類」がキリスト教(景教、真宗)であっても、なんら「さとりへの問題はない」のに、
「キリスト教は神になれない」「仏教は仏になる教えだ!」なんていう「薄い薄い表面」を語るから「論理的現代人には、狭い浅いと感じられてしまう」
年寄りを「先祖供養感覚で喜ばせておけば、お布施がもらえる時代ではない」から「寺院離れしている」のに。。。
古い仕組みにあぐらをかいて、「アタマを使ったり、ホントの仏教を学ぶこともしない」
当たり前のように「通説」を語っていれば良い。という風潮では、「僧侶自身」も納得できないものを「一般人が納得するはずがない」。。。
親鸞の時代にすでに「高野山や比叡山」にもあった「景教」を「化身土文類」にも、どこにも出さず「偽」ともされず、スルーしている。
なぜなのか。。
「理論物理学」とともに、現代では「なぜ阿弥陀如来」より「無碍光如来」がいいのか。
不確定性原理と量子論、そして相対性理論が、なぜ「世界標準」であり「キリスト教社会で普通に受け入れられている」のか?
フリーメーソンを「日本人は悪魔教」と言っているけど、なぜ世界はそう見ないのか?
結局「マレーシア航空墜落」の報道と同じなんです‼️
けっきょく古代も現代もいろんな世界が交流していて、けっこう世界的に文化は交流している。
けど現代は「答え」を求めるし、《ゴミ情報》が多すぎて、自分で考えたりしないから、余計に狭い範囲に閉じこもるのかも知れない!
僧侶の多くは、キリスト教をバカにしているけれど、
「神が大自然に人間の生きる本源的な意味を与えた」という表現と、
「阿弥陀如来が大自然に人間の生きる本源的な意味を与えた」というのと、
単純に現代で「説得力があるのはどちら」だとおもいますか?
あのシルクロードの往来は、いまの東京のようだったと言われますが、
「狭いセクトに収まっていても、世界基準では、相手にされません」
神や如来に深い意味を感じて「語り合い理解しあうこと」で、
大橋牧師さんという世界基準な仲間ができました。
一度行ってみて欲しい‼️
真宗僧侶に、そういう《カベ》を破って欲しい。
親鸞さんみたいに「あえて読みかえて意味を変えたり、あえて原文にない文言を入れたり抜いたり」して、「釈迦はこう言ってる」という「主張に変えてる」なんて、現代人には怖くてできないことなのだろう‼️
しかしそういう《カベ》を破ってまで、「真実を伝えようとされた」という深い意味がある。
崇めていれば、それでいい!
親鸞は、そんなことを言っていないし、やってもいない❣️
安定や安泰を守ってれば「いい」なんていう「無常」を否定したあり方に収まっている。
問題意識が低過ぎる。
先進国で世界を知らないのは、問題意識が低い日本人だけといえるかもしれない🇯🇵
草原、霧、山、空、「山と草原の間に朝霧が河が流れるように浮かんできています。」