インフォメーション(日々更新中)
2019-07-01 08:00:00
仏にはなれるけど神にはなれない!へのプロテスト。。
仏にはなれるけど神にはなれない!
これは実は人間にとって、「意思決定権」をどちらが持つのかということになる。
ここで「人間が意思決定権を持つ」とおかしくなる。
「仏になれる」は、「意思決定権者」になるということである。
ここで「阿弥陀如来のストーリー」が教えているのは、「利他の意思決定」であり、それ以上でも以下でもない、けれど「勘違いをしてしまう」から、「安心論題」といった「人間が決めた教え」に教えを限定してしまう。(これがあるからお西で「真宗学」を論じにくいうえ、論点がわからなくなる)
まるで「昭和の終わり」ぐらいに論じられた「仏教(真宗)カトリシズム」である。
明日「真宗が方便として《おふだ》を売り出して」も言われるがままになってしまう。(いっときのカトリックの免罪符のようなことである)
基本的に「欧米で信仰のない人は信用がない」という「人間以上のものを信じないひとは《簡単に意思決定がブレる》から信用できない」ということである。(所属、帰属がわかるから、思想がわかるということもあり)
日本の「パスポート」が通りやすいのは、日本人は「無害無毒」という単純な理由である。
神により、「無常な中で自然法爾にある《いのち》」が持つ「理由」。。
これを「祈りの中で」神に問う。(日本でいう祈りとは完全にベースが違う)
物理的に見たら、「単なるアタマの整理なの」だろうけれど、
大きな違いはそれを「神に問う」ということである。
「生きる意味や理由」というのは、仏教では基本「利他定義」になるのだろうけれど、この文言だけだと、具体性がない。
原始仏教的にいえば、「特に意味はない」無我である。
しかし目の前の出来事に「神」がなんらかの「理由」を与えているとしたら、その方が「具体的現実に」理由を定義しやすい。
いろんな出来事が、「整然と整理されて、アタマがスッキリする」という「功徳荘厳」である。
そのような「神による創造」だという前提で生きると「簡単」に「無我定義を生きられる」のに、仏教の「あいまい」な「無我と利他の定義」では「よくわからない」となるのだろう。
裏を返せば、神を受け入れて「仏教を見る」と、なぜか「2つがひとつになる」という、
不思議な状態に至る。
まるで「方程式の肝心な部分に《神》をあてはめる」と「解答が導き出される」というようなイメージである。
キリスト教の教えが「無常無我定義に自ずと導き」さらに「利他定義」を「現実のひとつひとつについてしてくれる」といえる。
ここで、仏教でいう「ブラフマンとアートマンを認めない」というのは、インドの「ブラフマン(神)」についての話しであり、キリスト教の「神」は、まったく定義が違うから、今さら「ブッダに問うこと」もできない。
「ブラフマン(基体)からアートマン(個体)が生まれる」という仕組みと、
「唯一の創造神」では全く異なる。
よく「神は誰が作ったか?」などの問いがあるが、その解答は「3.14159…」と続く円周率のようなものである。
あるいは「量子物理学」の「不確定性原理」のように、神の存在を問うなら、「わたし」についても「存在する」という確定もできない。
さらに言えば「なぜブッダが存在意味を持つのか?」という問いにも解答を与えない。
ブッダは「抜苦与楽」だと言いつつも「現実的に仏教の救いは難しい」ということを意味する。
では、仏教の「七地沈空の難」のように「わたし」が「無我、空」ならば、「そもそも生きる意味も理由もない」から「どうなろうが構わない」と言って「ニヒリズム」に陥る可能性は限りなく大きいといえる。
神が創造したのは「無常無我なハズの人間」であり、「なぜわたしがあるか必ず理由があると《神》に問う」ことで「それを発見」可能になる。
しかし「アダムとイブ」のように「神が禁じた《善悪を知る実》よくいうリンゴを食べた」ことにより、「虚妄分別」(無明)が生まれて、「生死をさまよう者」になった。
だから「生死出るべき道」が必要になる。
神が「わたしという生命体」に「機が熟した」と言って与えてくれたと言ってもいいであろう、
今回の不思議といえる経験と論である。
まさに「化身土文類」を書きかけたタイミングで、「景教」をなぜ親鸞は「論じていないのか」という課題に取り組みかけた段階での「出来事とアタマに浮かんできた、方程式の解答のポイント」である。
これが「世界スタンダード」にある《神》を「蒜山高原」と「親鸞と景教(真宗)」のテーマを通して、わたしという生命体(A)が生きてきた「理由」であり「真実」であると言ってもいいのかもしれない。。
https://r.goope.jp/sainenji/info/2019-06/page/3