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2019-06-27 00:46:00

浄土でなにになるのか?(仏教の弱み)

浄土で「諸仏になるのか、還相回向の菩薩になるのか、阿弥陀如来になるのか?」じつは親鸞の言っていることは、そのポイントがなんとなく「あいまい」になっています。

仏教学の真実則でいうなら「一如法界」に至るのだから「なんでもあり」ではあるけれど、「証文類」でいうと「阿弥陀如来」になるといえます。

 

しかしもし、昨日の「お知らせ」の内容で「神」に抵抗感があるなら「あなたは還相の菩薩を目指す」になる前提で、

「あくまでも意思決定権」は「阿弥陀如来」であるという構造を組み立ててもいい。

「自灯明」は「法灯明」があって成り立つ‼️

この「法」を「神」または「阿弥陀如来」なんでもいいけれど、とにかく重要なことは「意思決定権者」は「あなたやわたし」であってはいけないのです。

「迷い、揺らぎ、ブレる」からです。

 

現実的に「いま、具体的に、なにをすべきか?」を日常的に「意思決定するのはわたしではない」「わたし以上の何かである」という前提があって、、

日々その「何か」と「利他であるかどうかはどうでもいい」から「相談して意思決定を委ねる」。。「祈りによって神に意思決定してもらう」。。

その「神」という文言が、どうしてもイヤなら「阿弥陀如来」でもいい。(厳密にいえば、阿弥陀如来は創造者というレベルの絶対者ではないけれど。。「あなた以上の何か」になるのならそれでもいいと決める)

 

このような「信仰のあり方、行のあり方」をすれば「あいまいで具体性のない利他」ということが、具体的に「わたしが こうである理由 と なすべきこと」が、日々明確になります❣️

 

仏教の弱点は「日常的具体性現実性」であると言えますが、このようにすれば、この課題が解決するといえます。

仏教は、出世間の法ですから「当然といえば当然」なのですが。。