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2019-07-07 16:13:00
ひとまとめの論
創世記 1章1-8節(口語訳聖書)
1 はじめに神は天と地とを創造された。
2 地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。
3 神は「光あれ」と言われた。すると光があった。
4 神はその光を見て、良しとされた。神はその光とやみとを分けられた。
5 神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕となり、また朝となった。第一日である。
6 神はまた言われた、「水の間におおぞらがあって、水と水とを分けよ」。そのようになった。
7 神はおおぞらを造って、おおぞらの下の水とおおぞらの上の水とを分けられた。
8 神はそのおおぞらを天と名づけられた。夕となり、また朝となった。第二日である。
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- 1日目 神は天と地をつくられた(つまり、宇宙と地球を最初に創造した)。暗闇がある中、神は光をつくり、昼と夜ができられた。
- 2日目 神は空(天)をつくられた。
- 3日目 神は大地を作り、海が生まれ、地に植物をはえさせられた。
- 4日目 神は太陽と月と星をつくられた。
- 5日目 神は魚と鳥をつくられた。
- 6日目 神は獣と家畜をつくり、神に似せた人をつくられた。
- 7日目 神はお休みになった。
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「初めに言があった」。この「はじめ」とはいつのことを指すのでしょうか?多くの人は、聖書全体の出だしにある創世記1章1節の聖句「初めに、神は天地を創造された」を思い起こすでしょう。神が天地を創造された太古の大昔のことが「はじめ」であると。しかし、実はそうではないのです。ヨハネ福音書の出だしにある「はじめ」とは、天地が創造される時ではなくてその前のこと、まだ時間が始まっていない状態のことを指すのです。時間というのは、天地が創造されてから刻み始めました。それで、創造の前の、時間が始まる前の状態というのは、はじめと終わりがない永遠の状態のところです。時間をずっとずっと過去に遡って行って、ついに時間の出発点にたどり着いたら、今度はそれを通り越してみると、そこにはもう果てしない永遠のところがあって、そこに「ことば」と称される神のひとり子がいたのです。とても気が遠くなるような話です。説教題の「はじめにことばありき」の「はじめ」を漢字にしなかったのですが、どうしてかと言うと、漢字にすると、何かが始まる時の初めというように意味を狭めてしまうのではないか、本当はその前のことなのに。それでひらがなにとどめた次第です。(略)
旧約聖書のどんな伝統が、イエス様をロゴスと呼ぶに相応しいと思わせたかというと、それは箴言の中に登場する「神の知恵」です。箴言の8章22-31節をみると、この「知恵」は実に人格を持ったものとして登場し、まさに天地創造の前の永遠のところに既に父なるみ神のところにいて、天地創造の時にも父と同席していたことが言われています。同席だけではありません。ヨハネ福音書の1章3節をみると、「万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」と言われています。つまり、ひとり子も父と一緒に創造の業を行ったのです。どうやってか?創世記の天地創造の出来事はどのようにして起こったかを思い出してみましょう。「神は言われた。『光あれ。』こうして光があった(創世記1章3節)」。つまり、神が言葉を発すると、光からはじまって天も地も太陽も月も星も海も植物も動物も人間も次々と出来てくる。このように、ひとり子は神の言葉の側面を持つと考えれば、彼も天地創造になくてはならないアクターだったことがわかります。先にも見たように、ロゴスは直接的には「言葉」という意味を持ちますから、ひとり子をロゴスと呼ぶことで彼が創造の役割を果たす「神の言葉」であることも示せます。(略)
このようにひとり子は「神の知恵」、「神の言葉」であり、彼は天地創造の前から父なるみ神と共にいて、父と一緒に創造の業を成し遂げられました。実はイエス様はこの地上で活動されていた時、自分のことをまさに「神の知恵」であるとおっしゃっていたのです。(略)
箴言8章をみると「神の知恵」は「生み出された」と言われています(24、25節、ヘブライ語חיל )。「生み出された」と言うと、ひとり子も私たちと同じように何か造られた感じがします。私たち人間も生まれるのだし、そもそも人間は神に造られたものですから。さらに箴言8章22節を見ると、「神の知恵」である「わたし」、つまりひとり子も父なるみ神に「造られた」と書いてあります。神のひとり子も被造物なのでしょうか?
これはよく注意してみなければなりません。まず、箴言8章22節の「造られた」のヘブライ語の元の動詞(קנה)は、創世記1章1節の「神は天地を創造された」の「創造された」(ברא)と異なる動詞を使っているので、造りは造りでも何か質的に違うものだということに気づきます。そこで、箴言8章をよく見ると、神の知恵が「造られた」のは、天地創造の前に起きたことが強調されています。つまり時間が始まる前の永遠のところでひとり子は「造られた」のです。
「生み出される」についても同じです。確かに神に造られた被造物である私たち人間も「生まれる」のですが、「神の知恵」「神の言葉」であるひとり子が「生み出される」というのと全然事柄が違います。人間や動物の場合は、天地創造の時に造られて、被造物の生殖を通して被造物として「生まれ」ます。
(以上出典→日本福音ルーテル教会 スオミ キリスト教会(スオミキリスト教会は、フィンランドのルター派国教会の公認ミッション団体「フィンランド・ルーテル福音協会」が1990年に建て、日本福音ルーテル教会に所属する教会です。「スオミ」というのは、フィンランド語で「フィンランド」を意味します。)
https://www.suomikyoukai.org/?p=13571
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このような「バイブル」のストーリーを「阿弥陀如来」のストーリーとあわせてみると、
時間を「宇宙(天地創造)の始まり(ビックバン)」《以前の時間までさかのぼって》「そこにことばがあった」
っていうのは、《時間》で言えば、「十劫」や「曠劫より。。」「無始より。。」などという「言説」に符合します。
「ことばがあった」は、「仏教で《無色無形絶言》の世界を《俗諦言説》で定義する」ことと同じです!(ここで「ひとりご」という真宗の「一子地」と同じ表現が使われています)
また、心理学や脳科学など、いろんな科学が言っているように、
「脳は、言語(ことば)で現実を組み立てている」ということと符合します。
「人間にとっての《現実》は《ことば》に依存」しています。
わたしたちは日常言語で「自己が無意識」に定義している「ことば」で「ことがら」を認識して「思考」が動いています。
日本語で「おまえになんでオマエって言われなあかんねん!」なんて、
英語なら「youになんでyouっていわれなあかんねん」なんてありえない!
このようなやりとりは「日本語ならではの世界観」です。
わたしたちは「自然に《ほぼあいまいな定義語》」で、《無意識》に日常の現実を組み立てています。
そういう点でも、じつは「それぞれが認識している現実は違う」ということになります‼️
あなたと家族が同じ家にいても「言語定義」が違えば「別世界」を生きていることになります。
そこで量子物理学の「不確定性原理」や相対性理論の「次元論」などの観点からも同じように「人はみな違う世界を生きている」ということになります!
しかし、この「言語定義」を「明確にして共有する」と、同じ「世界観」が見えてきます!
そこで「無色無形絶言」の世界を「ことば」が定義するから、言語で「創世」されていくのでしょう!
だから、「家族が同じ言語定義」を生きる上で「宗教は重要な《言語定義システム》」です!
とはいえ言語が違っていても「違うことばで同じことを定義している」というケースが「仏教とキリスト教」に観えてきます!
1、はじめに神は天と地とを創造された。っていうふうに、
《ことば》で《世界観》が作られていきます。
そして、3、神は「光あれ」と言われた。すると光があった。
これが「真の仏土は光明である」という「光明」定義で、それは「智慧」を意味する!
という「同じことを定義」しているようです!
「無明長夜」という表現も同じ内容で「解釈」できます!
有名な、「アダムとイブ(エバ)」について。。
Adamという語は、ヘブライ語で「地面」を意味するadamah(アダーマー)という語の男性形である。この言葉は同時に「人間」(アーダーム)という意味も持つ[3]、かつては個人の名前ではなく全体を表す一般的な名詞として使われていた。創世記でも第1章ではこの言葉は普通名詞として使われているが、第2章、第3章では普通名詞と固有名詞のどちらの意味でも使われているが、第4章25節、第5章3節以前での使用例では本当に個人名として使われているのか疑わしい。実際英語では第2,3章で明らかに個人を表す時はAdamの代わりにthe manという言葉が使われており、前置詞を伴わない用例は見られない。
また、
アダムとエバ(アダムとイブ)は、旧約聖書『創世記』に記された、最初の人間である。天地創造の終わりにヤハウェによって創造されたとされる[1]。
なお、アダム(אָדָם)とはヘブライ語で「土」「人間」の2つの意味を持つ言葉に由来しており、エバはヘブライ語でハヴァ(חַוָּה)といい「生きる者」または「生命」の意味である。このエバ、エヴァ、或いはイヴ、イブ(英: Eve に由来する)という読みは希: Ευά(エウア)に由来する。本項では新共同訳聖書の表記にしたがって以下エバと表記する。 人類最古の文明を生み出したと言われているシュメル人が書き残した天地創造の物語がヘブライ語に翻訳されたと思われる。
という記述を見ると、ここにも「たんなるストーリー以上の智慧」があるようです‼️
仏教もバイブルも「ことば」に始まり「光明」で智慧を定義して、世界観を「功徳荘厳」と見る!
「功徳荘厳」は「神が創造した」ということと「言語で定義しようとする内容」は同じであると言ってもいいと言えそうです‼️
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情報は物質ではない。ゆえに物質の性質を持たない
しかし、科学法則は、「非物質な存在である情報を物質が生み出すことは不可能である」と言います。また「情報は知性と意思を持つ発信者によってのみ生み出されるものである」とも言います。ですから、進化論が可能であると考えることは、永久運動機関が可能であると考えることに等しいのです。これが、ダーウィンの進化論のアキレス腱なのです。この時点で、進化論とは、科学法則を否定しない限り成り立たない説であることが明らかになります。これらのことは、私の著書『初めに情報ありき 情報―自然と科学を理解する鍵』にて詳しく説明しています。
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情報(言語、言説)がなければ、「存在は確定できない」ことは「仏教も同じ」ですから「無色無形絶言」という「さとり」が成立するのでしょう‼️
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生命はどこから来たのだろうか?
今日、進化論を推進する学者で、生命がどこから来たかという質問に適切に答えれる人は一人もいません。生命を持たない物質がどのようにして生命を持つようになったかについて、進化論者は答えを持っていません。
生化学者スタンレー・ミラー(1930~2007)が、1953年に行った「原始スープ」の実験は、あらゆる生物学の教科書に登場しています。しかし彼自身は、進化論に基づいた生命の起源に関するいずれの仮説も科学の検証に耐えられるものではないことを、その実験から40年後に認めています。そして、これまでの進化論に基づいた試みを「無意味」な「紙面上の科学」だと表現しています。
一方、微生物学者のルイ・パスツール(1822~1895)は微生物レベルで科学的な検証を行い、「生命は生命からしか生まれない」という今日でいう生命遺伝学の基本法則を確立しました。
イエス・キリストは、「わたしがいのちなのです」(ヨハネ14:6)とご自身を指して言われました。また「万物は御子(イエス)にあって造られた・・・天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、・・すべて御子(イエス)によって造られたのです。」(コロサイ1:16)「すべてのものは、この方(イエス)によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つのない」(ヨハネ1:3)とあります。
聖書は、イエス・キリストがこの宇宙、そして生命の源であると証言しています。生命の起源に関して、イエス・キリストが創造者であるということを無視した仮説を立てるなら、それは最初から真理へと辿り着く可能性を放棄していることになります。
進化論は、世界の歴史上もっとも偉大な過ちといってもよいでしょう。進化論は、何億人もの人々を創造主を否む不信仰へ追いやりました。不幸なことに、今日多くの人々はそのような不信仰が、死後、永遠の滅び(地獄)というどん底に至る、ということを知らされないでいます。真の悲劇は、今日の世界が万物の創造者であるイエス・キリストに感謝と敬意を捧げることを忘れていることにあります。ジャーナリストは「ダーウィンありがとう!」と言う代わりに「イエス・キリストありがとう!」と伝えるべきなのです。
また多くの人は、イエス・キリストが私たちに偉大な贈り物を用意しておられることを知らずにいます。イエス・キリストは、「わたしは門である」(ヨハネ10:9)と言われました。それは、天国への門という意味です。(五念門もさとりへの入り口ですね)
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これらの内容から。。「生命は生命からしか生まれない」
人間という生命体ができるまでに、普通なら「RNA」が進化して「DNA」になった、という理論が一般的だと思います。
しかし、それぞれの「種」において「進化の産物ではない」、さらに言語を使えるのは「人間種」のみであるという「科学の論」でいうほうが「先進国の世界標準」だといいます。
つまり「人間種」は、ほかの「生命体」からの進化はありえないという理由で、「地球よりさらに進んだ惑星」から「量子レベル」で「人間種」が飛んできた。
という「思想」もあり、「キリストと神と聖霊」の三位一体原則で、宇宙以前から存在とされている「キリスト(神そのもの)」が「人間種」を創造したとするなら、「アダムとエバ」から「人間種」がスタートしていると言えますが、これこそ「神学」の「不毛な論」といえるかも知れません‼️
なぜなら、このような問いは「月を指す指」を見ているという「化身土文類」にある記述と同じことに陥っているからです。
「仏教」でも、同じように「不毛な戯論」は多いようです。
つまり「阿弥陀如来は実在か?」などと「文面にとらわれて」浅い表面をなぞっているだけの「論争」などが「意外に多い」ということです。
「神やキリスト」にしろ「無碍光如来や阿弥陀如来」にしろ、「深い意味を受け止めていかなければ」まったくの「無意味になり、戯論になる」からです!
意図的にマインドコントロール前提で作られた(と思われる)「エホバの証人」が、聖書を理由に「献血も輸血もしない」というあり方を現実に実行する。(ラストの原文参照)
また、「阿弥陀如来の真実心を《信心》としていただかなければ悟れない」といっている「親鸞会」のように、「文言通りにしか理解しない」というのと大差ありません。
すべては「情報の発信者と受信者」が「言語または画像で定義した世界」を生きていますから、
《人為》が入るのです。
しかも「情報の発信者と受信者」が「言語を同じ定義で生きているとは言えない」という《大問題》があります。
人間が「現在までのコンピューター」とは違い、「知、情、意」で思考している以上、
「まったく同じ」にはならないため、基本的には「アインシュタイン」を待つまでもなく、
「すべてが《同じ次元を生きている》とは言えない」のです。
だから、同じ宗教の「布教者」によって「聞き手」が同じ次元の内容を喜び、かつ同じ宗教の「別の布教者」が「同じ文言で、違う次元の話をする」と「わからない」ということになります。
外国語を「翻訳」するときに、ある翻訳者が「日ごとの《糧》」という翻訳をしたケースにおいて、
この外国語を「別の翻訳者」が「食べもの」と翻訳した時に「翻訳者」が《いのちを生かすことがら全てを指して翻訳した》としても、文言通りに「食物」と「理解するもの」がいれば、
前者の「翻訳」の「糧(かて)」という意味が、事実上「狭く(せまく)」なってしまいます。
つまり「糧」を、後者の「翻訳」では、「食物限定」に狭められたことになり「次元」に変化が起こります。
そこで布教者Aが「食べもの」と書いているけれど、「じつは深い意味があって云々」とわざわざ説明しなければならないことになります。
しかし、布教者Bが「毎日食べものが与えられているのは神(または仏)のおかげです」といってしまうと、布教者Aと「次元が変化」します。
つまり「信心」は、「サンスクリット語ではプラサーダといって「浄心」をあらわします」
と、「学者らしくいってみても」「サンスクリット語」で「プラサーダ」と記述されている「意味不明な文言」が、「浄心」と翻訳された時点で、「なんとなく理解できる言語になり」ます。
しかしここに先ほどの《大問題》が生まれます。
それは、この「浄心」を説明する布教者によって「定義がほんの少しでもズレ」ると、《全く次元が変化》するということです。
現代の「中国語の共通語」で、日本語の「声」を中国語に翻訳すると、「声音」になり、「音」を翻訳しても「声音」(Shēngyīn)になります。
このケースでいえば、「前後の文脈やシーン」によって解釈が変わります。
このように、わたしたち人間は、日常的に「同じ言語で、違う次元を生きている」ので、
なにが「真実か」というテーマは、じつは人ごとに違うのです。
なにが「真実か?」というテーマは「多数派や論理的か、または権威」といった基準で「判断」されていますが、
これにしても「操作された多数派」ということもあり得ます。
「ダーウィン」を「多数派」として、「論理的」と考えている「ヒト」が多いと思われる日本においては、「あたりまえのように《進化論》を信じる」という状態になっています。
「唯識論」の「認識」というテーマもほぼ同じことを言っています。
「ほぼ」というのは、「このことに限定されないから」、「ほぼ」と書いています。
ここで「親鸞」のいうことが「すべて」だと思っている人の中で、
親鸞が「浄土にて待ち参らせ候」と書いていれば、「また会える世界」という解釈も成り立ちますが、
「待つ」を「世俗とは違う、仏または還相回向の菩薩」になってくれることを「待つ」と表現して、「わたし(親鸞)と同じ結果」になるようにと、「隠密表現」していると理解する方が、適切な理解だといえます。(世俗の持ち越しではないということです)
また、「人間種」がどこから来たのか?
なんていう問いに「明確な解答」がないならば、「不明」という「理解」の方が適切だと思うひとは、
「そういう選択肢もある」と「論理付け」しても良いでしょう。
しかし「なんでもかんでも」「不明」と結論づけてしまうと「現実が理解できないまま、虚(むな)しく生きなければいけなくなり」ます。
そこで「人間を超える者」がなんらかの「理由」をもって「この現実がある」と理解して生きる方が、深い、または高いステージ(次元)を生きていけるようになるでしょう。
そういった《示唆》を与えるのが《人間を超えるもの》であるといえます。
しかし「どうしても説明がつかないことがら」については、「理解不能」だけれど「大いなるものが与えた、なんらかの理由はあるのだろう」という「現実理解」をして「あるがままを流れに応じて生きている」と、「ある時にその理由がわかるタイミングが来る」といえます。
この「ある時」は《次元が変化した時》という「定義ができ」ます。
「宗教に限らず《法律》も解釈次第」というのが、人間というレベルです。
【最重要】ポイント‼️
人間は《文言によって、創造された世界を生きている》だから《はじめに言葉があった》という「聖書」の記述は「なるほどその通り」といわざるを得ないのです‼️
一般的には、それこそ「理解不能」かもしれませんが、「各々の人間が生きている現実は《ことば》によって《現象》を定義された《次元》である」という《重要なことがわかれ》ば、
より「高い(深い)世界観」を生きられるのです。
このポイントがわかれば、各々の「個体としての人間」が、「人間として生きる理由を問う」ことができるようになり、「次元が変化」します。
これを「十二縁起の《名色》で定義する」のも同じ理由です❣️
ーーーーー(以下、エホバの証人ホムペ)
聖書は,だれも血を摂取してはならない,と命じています。ですから,全血を,あるいはどんな形態のものにせよその主要成分を,食物としても輸血としても受け入れるべきではありません。以下の聖句に注目してください。
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創世記 9:4。神はノアとその家族に,大洪水後,食物として動物の肉も食べてよいとされましたが,血を食べてはならないとお命じになりました。神はノアに,「ただし,その魂つまりその血を伴う肉を食べてはならない」とお告げになったのです。この命令は全人類に対するものです。人類は皆ノアの子孫だからです。
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レビ記 17:14。「あなた方はいかなる肉なるものの血も食べてはならない。あらゆる肉なるものの魂はその血だからである。すべてそれを食べる者は断たれる」。神は魂つまり命を,血の中にあるものとみなされました。そして,魂は神のものです。この律法は,イスラエル国民にだけ与えられたとはいえ,血を食べてはならないという律法を神がどれほど重視しておられたかを示しています。
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使徒 15:20。『血を避けなさい』。神は,ノアに与えたのと同じ命令をクリスチャンにもお与えになりました。歴史は,初期クリスチャンが血を飲もうとはせず,たとえ医療目的であっても血を用いなかったことを示しています。
「神はなぜわたしたちに,血を避けるよう命じておられるのですか」
輸血を避けることには,しっかりした医学的理由もあります。しかし,より重要なこととして,神は,血の象徴する命がご自分にとって神聖なものであるがゆえに,血を避けるよう命じておられるのです。―レビ記 17:11。コロサイ 1:20。
ーーーーー(以下、エホバの証人に対する反論)
他のキリスト教を主とする宗教関係者から、エホバの証人の血液に関する主張は拡大解釈である、教条主義であるといった批判がある。輸血を受けるということと、宗教的な救いとを結びつけるような主張について、
福音書に書かれているようなモーゼ律法の字句のみにこだわった行動を戒めるイエスの言行と照らし合わせ、
エホバの証人の主張はイエスの福音に反するという批判をしている。
例としては、
- 「安息日は人のためにあるもので、人が安息日のためにあるのではない」マルコ福音書 二章二三〜二八節
- 「安息日に病気を治すのは、律法で許されていますか」「あなたたちのうち、だれか羊を一匹持っていて、それが安息日に穴に落ちた場合、手で引き上げてやらない者がいるだろうか。人間は羊よりもはるかに大切なものだ。だから、安息日に善いことをするのは許されている。」 マタイ福音書十二章九〜十四節
などのものがある。
なお、エホバの証人の解釈を支持する他の宗教は皆無である。