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2019-08-19 03:22:00
浄土はなぜ国なのか?
浄土を国という!
浄国、極楽国土、浄邦などという。
また、「諸仏国土」といい、いろんな仏がいて、それぞれの国をもつ。
これはなにを意味しているのか?
地球における国は、いつだれがそういう境界線を作ったのだろうか?
地球における国は、民族の違いや政治による境界線なのだろう。
とはいえ、なぜ国なのか?
そして争うのか?
アメリカのように合衆国として、イギリスの連邦のように、それぞれの地域による自治を尊重しているように見える国のあり方もある。
また、ワンワールドという考え方があるけれど、それは、一部の支配層が「仕掛けて」支配するための思想なのだろうか?
地球国🌏として、地球がひとつの国になることは、究極の理想であるとすると、結果的に「支配層」が勝手なことをするようになるのが人間の愚かさなのかもしれない。
ある「世界的なグループ」では、「惑星法」という法を有して、宇宙人との関係性において、地球とそれ以外の惑星との関係を「規制して」いて、「人間種」を守るとしている。
この「グループ」は、べつにカルトでもオカルトでもなく、資本主義社会の知識層のひとたちが一部で作っているグループであり、「おかしなひとたち」ではない。
じつは、こういう発想も「ワンワールド」と変わらない、日本人が知らないだけの「資本主義世界の標準」といえるのだろう。
もとい、「浄土」が「国」である必要性については、「そこは素晴らしいところ」で、「それ以外は愚かな世界」ということではないと前提定義しなければ、「独善的な国」という「自我国」になってしまうといえる。
地球における国という概念とは違うのは、間違いないのだろうが、ウラを返せば「地球における国」も本来は、「仏国」と同じ概念であるべきなのかもしれない。
では、浄土や仏国という次元における「国」という概念があらわしているのはどういう事柄なのか、以下興味深い「論文」があったので、その一部を引用して、アドレスをコピーしておきます。(論文作成者さまへ敬意を持って)
「私がいう世界は、そこにある客観的な事実です。たとえば私を中心とすれば、そこに父があり母があり、兄があり妹がある。父を中心とすれば、世界がガラッと変わる。私が母と呼ぶ人は妻となり、私は八男となり、兄も妹も皆息子や娘となる。あり方の関係が変わるだけではない。言葉使いから、生活態度から、すべてが変わる。十人おれば十の世界があり、千人おれば千の世界がある。
私を中心とする私の世界は、私が王で、他の人は皆私の國の住民である。父を中心とする世界は、父が王で、他はすべて父の國の住民である。
私の國が清らかであれば、王である私の存在は安らかであり、その行動も無碍である。もし私の國が濁っておれば、私の存在は常におびやかされていて、私の行動は絶えず妨げられ、その道はいばらである。
その人の世界が清らかであるか、濁っているかは、その人とその人を取りまく人々との関係によるのであるが、それは、その人が、周囲の人の胸にどう映っているかというところに現われている。」( 仏教開眼四十八願)
この一人一人を王とし、その人を取りまく「関係世界」を「國」と名付けます。
http://www.gujo-tv.ne.jp/~tyouzenji/butukokudo.htm
以上引用ですが、この論から考察するに、「国は次元」と同じ概念なのかもしれません。
そこに生きているひとの中で「パワーバランスの強い存在」に影響を受けて、変化が起こるということは、「そのパワーバランスの上で強い存在」が浅いものの考えかたをしていれば「その国の人はそうなる」、深ければ深くなる。
そういう意味で「さとりという次元を共有する者たち(サンガ=和合)」がいるところは、すべて「仏国」という次元になるといえます。
だから「仏国」は「境界線を意味しているのではない」といえます。
そういう点で「地球における国」も「よりよき価値観」という次元を共有するものが生まれる政治をするべきなのだといえるでしょう!
これが地球においても、「民族性」や「お国柄」ということにもつながります。
なにを「価値」とするかは「国によって違い」それは、DNAの違いでもあるでしょう。
そもそも「生きている次元」が違うのです。
究極の理想であるかもしれないけれど、そのなかで「より良き価値を目指すこと」が重要なのだといえます。
そういう意味で「ワンワールド」は難しいのかもしれません。
また、だから「仏国」や「キリスト教」の「天国」という概念が「高次元の価値観」を人間にもたらす概念でもあり、あえて表現上「国」である必要があると言えるのだと結論づけられるのでしょう‼️