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2019-08-21 02:27:00

本堂の内陣は「浄土」なのか?

真宗における本堂の内陣(通常僧侶が座る方)は、浄土をあらわしているという。。

 

しかし、アビダルマ仏教の「宇宙観」である、須弥山は阿弥陀如来のしたに「須弥壇」としてあり、

阿弥陀如来自身が宮殿(くうでん)にいる。

 

これは、親鸞さんがいう「疑城胎宮」の「宮殿(くでん)」と同じになる。

しかも真ん中の礼盤のうえに「人天蓋」があり、「天をあらわして」いる。

 

また、僧侶が入堂するときには「通常、阿弥陀如来の後ろ」から出てくる。

そして「黒衣」の時や「色衣」の時がある。

 

また、「成仏したはず」の「親鸞さんや蓮如さんをはじめとした歴代門主」は「厨子」に安置される。

これは基本的に「ドアが閉まり」鍵がかけられる。

いわば「収納している状況」である。

 

このような内陣を「いつからだれが浄土定義」したのか。。

 

これは「阿弥陀如来を宇宙のトップ」として、「その本質は光明」だから「後背」が光明なのであろう。

そして仏像はあくまでも方便だから「宮殿」にいる。

 

そこでまた、僧侶が阿弥陀如来の後ろから出てくる以上「還相回向」をあらわすのか、阿弥陀如来を讃嘆している「聖衆や人天」なのか。。

 

いずれにせよ、内陣は「阿弥陀如来(無碍光如来)」を讃嘆する「五念門行」を行じている姿をあらわしていて、「仏を観察している姿」でもある。

 

そこで「僧侶は事実その場面で五念門を行じて」、そして外陣は「五念門を行じるありかた」をモデルとして観る。

 

また一緒に「行じる」なかで、「五果門」の「大会衆門」になり、「薗林遊戯地門」として「自信教人信」「他利利他」の場となる。

 

であれば、本堂全体が「浄土論や浄土論註」の「五念門五果門」の場になる。

 

これならば、「人天蓋があろうが、須弥山のうえが宮殿であろうが、厨子に納まっていよう」が、問題ではなく、

 

本堂すべてが「念仏の道場」といえる。

 

お西では「お勤めや法要」を「五正行」によって解釈し、信心を得ることを「安心門」といい、そのうえで「お勤めや法要をする」ことを「起行門」という解釈をする。

これは「蓮如さん解釈」である。

 

しかし、親鸞さんは「五念門五果門」によっているから、ここに記述したように解釈するほうが「親鸞さん」に合致すると思うのだが。。‼️