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2019-08-23 02:02:00

化身土文類の必要性❣️

以前、沖縄別院で聞いて印象的だったのは「とにかく文化が違うから、どうしても阿弥陀如来を安置してくれない」。。

ということだった!

 

台湾では、とにかくあれもこれも、道教や儒教や仏教など「混在してる」し、

中国は「原則宗教は禁止」だし、東南アジアは、ヒンドゥー教が多くて、なんでもあり。

 

人間にとって、「真宗」である必要があるのか?

逆に「真宗」以外ではいけないのか?

 

正しさは「ひとや民族などなど」によって違う。

 

真宗においても「空華だろうが、石泉であろうが、お東だろうが」その違いを論じなければならないのか?

 

いまわたしは「わたしの善知識」といってもいい人からの意見を真摯に聞いていて、「論の押し売り」をしているのではないかと思うようになっている。

 

教行証文類を読もうがどうであろうが、もはやわたしも「バイブル」を読むようになって、「真実、真理」の定義も時代や地域によって変わり、そこにも真実があると理解している。

 

今日は東京の「いわゆる文化人」に法話をした。

 

内容的には、「人間が人間の論で意思決定をしないこと」が世界標準に重要だということで、その中で「景教について」や神道と「古代ユダヤ教」との関係。。

 

これらの持つ意味を、「人間以上の存在の意思決定」に定義して話をした。

 

そして「悪魔崇拝」といわれる「ルシファー 」についても、「人間の悪魔性を見られている」という意味があり、決して「悪魔崇拝ではない」などということを話したが、

 

その後の茶話会でも、「そういう見地」を支持されたけど、よくいう「その人が救われていればなんでもいい」という、「意味不明」な「救い」において、

「救われた状態」について、「仏教でいう救いはさとることです」なんて言って「救い」を「さとりで定義」する必要があるのか?

と感じた!

 

たとえば「騙されていても」それでその人が救われていればそれでもいいんじゃないか?

というような意見もあったが、「騙されていた」と気づいても、そういう人は「自分が騙された」ということはない。

 

化身土文類にある「仮」も「偽」でも、それを「邪」として排除することは、ある意味「世界を敵にすること」になるだろう。。

 

ただ定義や理由も知らず「神や仏を同じステージ」で論じるのはおかしいとは話した。。けれど。。これさえ必要なことなのか?

 

アメリカに行って「キリスト教は《邪や偽》だ」と言えるか?

「沖縄別院」でさえ、「ムリクリ阿弥陀如来を安置した」として、それで「安心」するのは坊さんであり、その家のひとではないだろう。。

 

あくまでも「一般論」であるが、「化身土文類」は、このような「グローバル社会」に必要なのか。。

 

「はじめての親鸞」を書くときに、「中央公論社」の社長が「化身土文類」は「現代人に意味はないから詳しく書かない方がいい」と言われた。

 

当時もいまも「最終意思決定」を占い師に任せている経営者もけっこういる‼️

 

たしかに「グローバル社会」で、宗教に関わらず、いろんなことをそれぞれが「信じていたりという時代」に返って「ドグマ(独善)」といわれる可能性はある。

 

現代に「顕彰隠密」というような「ややこしい教義立て」が意味をもつのか?

「難信の法」が難信なら「不信でもいい」かも知れない。

 

少し前に「友人」が、「韓国人のお葬式」をして、どういえば「真宗に気持ちが向くか」と相談してきたが、

「ムリなものはムリ」である。

 

「要門」で「大会衆」を作ることに意味があるのか?

布教の現場でも一部を除き「論より情」が喜ばれる。。

 

そもそもすでに、難しい論を持ち込まなくても「阿弥陀如来」に座りをもっているひとに論が必要なのか?

 

どうも「化身土文類」を書いていて、「善知識」に教えられ、今日の東京での「文化人」といわれている人のように「論を喜ぶ」けれど「座り(自己の思考)は変化しない」のなら、

「教行証文類」を講義することが意味を持つのか?

 

「なぜ生きるか?」という問いや「ものごとを意味のあるなし」で判断すべきかどうか?

 

以前「ホームドクター」にこういうことを話したら、

「わたしの父は、80才のいま、ただ黙々と生きているけれど、その父の後ろ姿に、とにかく理屈抜きで生きること」。。

「それで充分じゃないかと思った」といわれたことがある。。

 

ひとは「意味を求める」けれど、「維摩経」の「維摩の一黙、雷の如し」というように、

こういうことを考えること自体が無意味なのかと思う。

 

「絶言」の「さとりに意味はない」といえる。。

だから「目の前のすべきこと」に気持ちを向けられる「心」に導くことができたらそれでいいのかもしれない。

 

ひとは「企画より善意の誠意に動かされる」ということばもある。

 

以前わたしは「さとりは納得である」と論じていた時期があった!

「天国でまた会いましょう」と言って「互いに納得」できれば良いとも思う。。

 

いまから20年ぐらい前には「靖国で会おう」といって「死んでいった戦友を思って」真宗の「靖国批判」に納得できないという門徒さんがいた。。

 

その気持ちや思いを「親鸞の教義」だ「社会問題だ」といって、「批判してみても仕方がない」とも思う。。

 

このように「真実」を確定するのは難しい。

だから「シュレディンガーの不確定性」はもっとも真実に近いのかも知れない!

 

けれど、このような思いを巡らせる中で、改めて「はじめての親鸞」の結論でよかったと思う‼️