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2019-08-30 15:10:00

Quoraへの回答から(空について)

般若心経などでは、色即是空のあとに、受想行識亦復如是と続きますが、この「色受想行識」を五蘊(ごうん)といって「人間の構成要素」とされています。

けれど、「色」のみが「肉体やすべて」をあらわしていて、残りの4要素は、「心の動き」をあらわしています。

お尋ねの「空」は「無自性」ともいい、「実体がない」という意味です。

釈尊が「無常と無我」を説いて「すべての存在は常に変化してやまない」「だから《わたし》も変化するから実体もないし、実体でもない」ということを説きました。

それをインドのナーガールジュナ(龍樹)というひとが「中観派(ちゅうがんは)」を立てて、「空」という論にまとめたのです。

また、人間は「存在を色で認識している」と論じられていて、「形で存在を認識しているのではない」ともいわれます。

だから、2次元のテレビなども3次元と錯覚して見ているのです。

色のグラデーションで立体に見たり、なんらかの存在物の色と対比して、「色」(カラー)で3次元だと存在認識しているのです。

このように「色即是空」という場合「色(存在、肉体)は空である」と論じているのです。

「空」というのは、「実体がないこと」つまり「固定して変化しないものはない」「すべてが変化する」という流動的な存在のあり方をいいます。

人間は「死ぬ」といいますが、これも「状態の変化」なのです。

「氷が溶けて、水になり、蒸気になる」ことと同じで、火葬されれば「原子または素粒子」に戻ります。

ですから、仏教の智慧では「生も死も同じ」と「生死一如」といいます。

たまたま、両親のDNAから生まれて、細胞分裂して人間になっていますが、生きている状態は「60億の細胞分子のかたまり」で、

死んだら、そのエネルギーの状態が変化するだけですから、「死んでも、これは変化しないわたし」という存在はあり得ません。

また、すべての存在は、なんらかの集合体ですから、「数珠」でもヒモが切れたら「玉」と「ヒモ」になってしまうように、

玉とヒモの集合体が数珠ということです。

ここでもう一つ深めると、人間は存在を「言語」で規定していますから、数珠も切れたら「玉とヒモ」になるわけです。

「宝くじ」も外れたら「ただの紙切れ」になるように、言語が現実を定義しているのです。

こういう状態が存在の本質であり、だから「執着すべき存在はなにもない」と悟れば、自己や所有への執着もなくなるので、

本当の「楽」になれると説いています。

とはいえ、存在に実体がないとはいえ「いちおう存在してるじゃないか」という存在の側面からいうと、「空も亦復空」といい、

存在が空だから「実体がない」存在というけれど、目の前にあると思われる存在も、それもまた空であるといい、

「空は非空であり、非空は非非空であり。。」と延々と続くのです。

1/3=0.333333…のような状態です。

だから延々と続くまでもなく「現実のすべては、執着に値しない仮の存在なんだ」「空なんだ」と見ることができるように、

修行するのが「仏教」です。

いかがでしょうか。。