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2019-09-11 21:23:00

三法印の解釈についての回答❣️

釈迦の時代のこの「無常、無我、寂静&一切苦」の仏教としての法印は、その細部においては、部派仏教になった時点で「解釈」が細部において「分かれて」います。

しかしながら、現存して「完全なかたちで残っている」のは「説一切有部(せついっさいうぶ)」という部派で、「倶舎論(くしゃろん)」という「ヴァスバンドゥ(世親)」という学僧が書き残した「中国での翻訳本」と「サンスクリット原典」です。

この中に、批判の対象として「犢子部(とくしぶ)」の論が出てくるので、犢子部の論は、そこで確認できる程度です。

この「倶舎論」において、「無我、非我」について「三世実有、法体恒有」という「過去、未来、現在」の三世において、「法体」は「有」であると論じていて、「我空法有」という「無我の我は空であるが法は有である」という説を論じています。

この「有」の法というのは、「五位七十五法」のことをいい、これは、「色、心王、心所、不相応、無為」の五位と、それぞれに関する七十五の「法」を指します。この「五位」について、「色法」は「肉体や物体の元素的な内容のこと」をいい、あとは「心の動き」であり、「無為法」が「さとりの法」ということになります。

ここでなぜ「我空法有」なのかというと、「なにかが存在する以上、その構成要素があって然りではないか」という、現代の「素粒子」のような「実在」があるはずである。という論理になっているからです。

だから「構成要素」は有るけれど、人間などの存在は「構成要素の集合体」なので「我は空」という論理展開です。

このように「無我」の解釈が「細部に論じられ」、大乗仏教の「ナーガールジュナ(龍樹)」というひとが「我空法空」を説くに至って、「どっちにも実体はない」と論じて、「空は非空であるから、存在のような仮の和合した状態があり」これを「有」とは言わず「非空」として、「非空は非非空で、非非非空で。。。」と永遠に続きます。

このように「無我、非我 」を徹底して「空」とした「中観派」を確立したのです。

そこで、部派だった、ヴァスバンドゥは、「倶舎論」を発展させて「唯識派」を確立します。

これは、我空法空をさらに深めて、「我空法空」ならば、「なぜ存在があるのか」という疑問を立てて「すべては認識による」という認識による「存在のあり方」を論じて、その認識主体になっている「阿頼耶識(あらやしき)」自体は「空」であるという「大乗仏教の観点から」論理を確立しました。

このように「無我、非我 」については「細部において、論理展開」があり、「華厳経の法界縁起説」「法華経など」さまざまな「経典」から「真如論による真如縁起説」「如来蔵縁起説」「諸法実相」などのさまざまな「無我と存在の関係性」が「無常原則」を根本にして論じられています。

興味がお有りであれば、いろいろと探求されると「現代物理学」にも劣らない、「宗教というより科学だ」と感じられるかもしれません。

しかし「あくまでもこれらの論理は、さとるための論理」であり、これを体得する「行」が伴なうことは切り離せません!