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2019-09-14 03:46:00

なにを指針に生きるか?(読んでいただきたい内容❣️)

仏教を深く学んでいるひとや、神に本当に託しているひとは、仏教でいう「無我」という「自我を放棄して」自然の流れに乗ることができます。

そこで「仏典やバイブルという「高次元(多次元)の世界観」を持つことができるので、「自ら判断」をしなくても、脳にデータとして入っている「仏典やバイブル」の文言から「脳が勝手に選ぶ」という現実を感じます。

人間が意図的に判断をするときには、損得や見た目などの「浅いレベルの知恵」によって判断するので、「必ずと言っていいほど、ひょっとしたら間違ったかもしれない」という後悔やなんとなくうまくいかないという思いにかられる時があります。

とにかく多くの人為的世界に生きていると、人為的選択をしてしまうので、さらに「自我に捉われて苦しむ」ということがあるのです。

多くの日本人は感じたことがない「経典やバイブルによって、自然に任す」という経験が少ないと思いますが、それは「家庭や学校の教育」の結果です。

「死んだら終わり」という「文言」に、どんな意味があるでしょう。

「不幸は運気のせい」という文言にどんな意味があるでしょう。

人間が人間の狭い世界観で、意思決定して、どれほどの「多次元判断」ができるでしょうか?

結果「自分にとって好都合」を選ぶことで、「自我の拡張」をしてみようとすればするほど、「狭い世界観」に閉じ込められていき、「一貫した安定感」を得ることはできません。

多くの「ゴミ情報」に振り回されるだけなのです。

「この先どうなるのか?」というような不安にさいなまされる。「社会が悪い」と言ってみても、なんの解決にもならない。

しかし、広大で多くの次元に身を委ねると「自然に答えに導かれて」自我が「破我されて」落ち着いた安定感を得ることができます。

「自然のいのちが私という生命を生きる」「神のいのちを生きる」という「主客を入れ替えることがもたらす世界観」は、もはや「我がいのちではない」ので、

「損得、幸不幸、苦楽」を超えて生きる世界が開けていきます。

とはいえ「こういう境地は昨日や今日得られる性質のものでもなく」「どの宗教でもいいわけではなく、怪しげなカルト」という「明らかに儲けや信者獲得を目的にしている」と思われる宗教の中では、生涯得られない世界観です。

そう意味では「どの宗教がいい」ということでもなく、「どのひとに学ぶか」ということは重要なポイントです。

わたしも一般世間では無名な師に学び、どんどん「自然に任す」という「安定感」を持つ「多次元世界」に導かれています。

ホンモノは「地味なもの」です。

「死んだら終わり」だろうが「運気がどうだろうが」構わないのです。

そういう「もっともらしいけれど無意味な文言」はひとの判断であり、自我の延長でしかないので、取り合う必要がないという安定感を得られるように、

「仏の世界観」を念じ、「神の意思を祈りの中で聞く」という「人間の狭い世界観による判断に委ねないこと」が自ずと価値観を超えた真の幸福を得られます。

オマケですが、「〇〇したまへ」という文言は「祈りや願いの中で〇〇になりますように」という意味ではなく、

ほぼ「コトバンク」から!

⑤ (補助動詞) 動詞または尊敬・受け身などの助動詞の連用形に付いて、 ㋐ 動作の主体に対する尊敬の意を表す。 ⓐ …てくださる。…てくれる。 「旅行きもし知らぬ君を恵み-・はな/万葉集 3930」 ⓑ なさる。お…になる。 「女御・更衣あまたさぶらひ-・ひけるなかに、すぐれて時めき-・ふありけり/源氏 桐壺」 ⓒ 〔助動詞「す」「さす」などとともに「せたまふ」「させたまふ」などの形で〕 帝みかどや高貴の人の動作に用いて、より程度の高い尊敬の意を表す。 「二月一日のほどに二条の宮へ出でさせ-・ふ/枕草子 278」 ㋑ 〔上位の者の下位の者に対する動作を表す語に付けて〕 恩恵を与える意を表すのに用いる。…してやる。してつかわす。 「朕あれは汝みましの志をば蹔らくの間も忘れうましじみなも悲しび-・ひしのひ-・ひ大御泣おおみね哭かしつつおほまします/続紀 天応一宣命」

(以上引用)

というように「主体に任せる」という意味で使いますから、「お願い」ではないのです。

こういった生命のあり方を生きることがもたらす「主体を自然や神に任す」世界観を行じて行くと、世間の「迷い苦しみがほんの小さな井の中」であることがわかります。