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2019-09-20 18:11:00

リクエストから、再度書きます‼️

仏陀には三人の師匠がいたことは有名ですが、どの師匠も弟子の仏陀に教団の後を継いでくれと言って断られています。

 

当たり前なんですが、師匠から様々な教えを受けて、その教団から勝手に去ってしまう、というのはかなりヤバいやつです。

 

はっきり言えば、その当時の教団とは、様々な知識を持った職能集団ですから、勝手に抜けて知識だけを持ち出されてしまうのは大迷惑だったことでしょう。

 

しかも、自分の国の国民を戦争をしないという条件で他国の奴隷として引き渡してしまいます。

 

チョーわがままで身勝手な奴、それが仏陀です。

 

そもそも修行自体が、この世の中が嫌になって始めたんですから。

 

修行自体が憂鬱な気分を何とかするためにやってたわけです。

 

で、それでも、嫌な事(教団の管理)からはいつも逃げ出してしまいます。

 

そりゃ、提婆達多も怒るよ。

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ーーー(わたしの回答)

 

学僧として回答するなら、さきに回答されている、「仏陀は身勝手なヤツ」は適切だと思います。

 

この辺で、「仏教徒は、一度見直すべき重要な提言」をされています。

 

「仏教は一般常識では語れないという重要なこと」を。。

 

歴史的にみると、仏陀は「普通」ではありません。

 

「妻も子どもも親も捨てて、一族を放棄して出家した」というのは、非常識極まりない「身勝手なヤツ」になります。

 

そもそも「生苦」なんて「生まれることの否定」を意味して「生まれることは《苦を生むこと》だ」という思考構造です。

 

ですから、「四苦」を布教で語るうえで「生苦」(生まれること自体が苦を生むことだと)「詳細」に話すことは少なくなっています。

 

現代のように「原典研究」されていなかった時代は「生きることは苦ですね」と語られていたのですが、

 

「生まれる苦」を意味することが明確になっている現代では「言いにくい人間の事実」だからなのです。

 

仏陀は歴史の中で「相当イメージアップされて」来ています。

 

ただ、このように、「仏教の根底をハッキリ語られない」まま来ていますが、いまや「先の回答者さん」の言ってることは「暴論」ではありませんから、

 

事実を元に語れる時代に、暴論のような書きぶりですが、見事に僧侶批判をも意味されていると感じました。

 

それは、「世俗の価値」では、全く理解できない内容が仏教なのに「その本質を語らず、そこを生きる(行じる)こともしないで、綺麗ごとばかり言って、お布施ばかりを考えて来ている僧侶のあり方への提言」だとも理解できるからです。

 

仏教は「無常無我原則」を徹底的に理解して、仏教の「真理性」がわからないと「世間には受け入れられない教え」なのですが、そこを生きていないで、世俗に埋没していると語れないのです。

 

基本的な仏教は、「自我は、宇宙や自然の動きと人間は変わらない」という「大原則」があるという意味です。

 

「世俗の人間の非真理性」を明確にしているのです。

 

仏陀は「自我にとらわれて、所有にとらわれて、家系は大事にするけれど、世界規模の他人はどうでもいい」という人間の「欺瞞」への提言から始まっているのです。

 

だからといって「〇〇主義反対!」という「主張」ももちません、ただ在るのみなので出家者(マジ仏陀ファン)」以外の在家者には「対機説法」していますが、

 

「原典研究」においては「かなりな非常識」を「ダイレクトに出家者に説いて」います。

 

親鸞の「教行証文類」にも「迦葉菩薩が仏陀」に、「あなたの息子は、出家しても地獄に落ちるようなことをしているのに、なぜ出家させたのか?」という問いに、

 

「あの子はわたしの次に王位を継ぐ人材だから、もしあの子が王位を継ぐと仏教グループを壊すようなロクなことをしないとわかっているから」というようなやりとりがあります、親の愛情など微塵もありません!

 

また「親鸞は父母のために供養はしない」という意味も書かれていて、「狭い人間世界の愚かな自我」に向けて「袈裟斬り」するような内容が頻繁しますが、

 

布教者は、「父母に限らず輪廻の中で、どこかでみんなが父母兄弟だったからという意味です」とごまかして論じますが、この後半の説明部分は「歎異抄」という「弟子の創作」ですから「親鸞の真意」は「著書」である「教行証文類」から読み込まなければ、深い意味が明確になりません。

 

「父母という概念は、生命の流れにおける存在」でしかなく、「生苦」の元でしかないということです。

 

また「ほかの祖師や傑僧もけっこう常識はずれなことを書いています」が、一般に向けては「語られない」のが普通です。

 

このような「仏陀の論理構造」では、とても「受け入れがたい」というところから生まれたのが「大乗仏教」です。

 

これは「そもそも人間の自我が問題だから、利他教化することで《自我を離れて》他についても同じように《自我を離れること》を説き、《無我の和合体》を作ろう」という論です。

 

仏教が「出世間と世間を止揚するにはうまくできた論理の展開」です。

 

しかしこの論理の根底を知らないひとに「ここだけをいう」と権力者や「くだらない指導者(教祖的なひと)」に「思想を利用される」ことになります。

 

「お前たちは、自我を捨てなければならない」だから「わたしのいうことを聞け!」というパターンです。

 

また、江戸時代には「こういう自然論」(人権以上の宇宙レベルな平等論)が説かれることは、「封建制度」に都合が悪いため「中国製の偽経」によって、

 

「感謝」が強調されて「目上に感謝」という「儒教を仏教として説くように命じられたため」このような「教え」が「仏教だと誤解されたまま」今に至っています。

 

「仏陀の、世間では理解されないであろう真理の達観」を「世俗と折衷する形式で生まれた」「大乗仏教の根底にある《仏陀の論理構造》」を現代人は理解して、

 

「ファンタジーではない、綺麗ごとではない仏教」を語り合える時代になっているのに、僧侶が「この重要ポイント」を「遠回しにいってみたり、そもそも僧侶もわかっていない」。。

 

だから「説けない」ということになっていて、「一般の方で、突き詰めて仏教を学んでおられる方」のほうが「量子物理学」などと同じ原則なので、よほど理解しておられることも多いのです。

 

また「この原則から不確定性原理」と同じ原則を見出せるなら「多次元世界」も理解できて、「浄土」と言った論が、「浄土という場所」を意味しているのではなく、

 

「浄土が多次元、出世間の高次元」を意味していることがわかるはずなのですが、未だに「死んだら浄土に行きます」なんて「世間から見ても仏陀以上に身勝手な教えに貶めている」と「論理的」に見るひとには思えるのでしょう。(親鸞の時点ですでにそのように書かれているのに読み込めていないのでしょう)

 

「仏教離れ」はこういう根源的な部分にもあります。

 

「身勝手なヤツ」に見える「仏陀の根底的な大前提は真理性」に根拠があるからです。

 

ここを「先の回答者さま」が言っているのではないかと思います。

 

また、この不確定性や多次元が理解できれば、キリスト教との合理性も理解できるのです。

 

先の回答者さまは「明確な指摘をされて」います!

 

閲覧数: 5件 · 高評価した人を見る · はらだ よしひろ (Harada Yoshihiro)さんがリクエストした回答

 

【ポイント】

 

「流転三界中、恩愛不能断、棄恩入無為、真実報恩者」という、

 

枕経「臨終勤行」の時などに唱える文言は、

 

「迷いの境界の中で、恩愛を断つことは難しい」

「けれど、恩を棄てて、無為に入ることこそ、真実の報恩者である」という意味であり、

 

先の「回答」そのものです‼️