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2019-12-01 03:31:00

言語的不純物‼️

「親鸞」といえば、「論理」になる。

「親鸞聖人」といえば、「情動」(敬意)が出てくる。

「親鸞さん」といえば、「ひと」(読み方次第で論と情に分かれる)になる。

 

私たちは、「言語によって」パターンづけられた「意味的世界」を生きている。

 

「結婚」していなければ、「複数の人と関係性があってもいい」といえる。

「結婚」していれば、「複数の人との関係は問題」になる。

 

私の世代ですら、「Windows95」が出るまでは、「CD」が何万円もするなんて、思いもよらず、「当初」は「なぜこんなCD1枚に何万円も払うのかわからない」と思っていたけれど、、

 

そのなかにある「価値は人類の知恵の創造による成果物」だと理解して、それは「当たり前」になった。

 

「人工知能」でさえ、「成果物」であるが、私は、いま現在において、人類にとって「そこまで必要なのか」わからない。。

 

「DNAを操作して」まで、自然を変えるのが、人類にとって良いかどうかわからない。。

 

「グローバリゼーション」がいいのかどうかもわからない。。

 

けれど、地球または「宇宙」は「自然に人間種をそのように動かして」成り立ってきた。。

 

「宇宙が宇宙自身を自殺のベクトルに導いているのか」

「宇宙レベル」なら、このぐらいのことは「ミクロ」なことなのか。。

「宇宙」に「意思のようなものがあるのかないのか」。。

 

「神」と「仏」では、微妙に違う概念であるが、世間は「同じ」だと定義しているから「神も仏もあるものか!」と言うけれど、、

どちらも「教え」への「信用」からスタートすると言う点では、「神や仏」に限定せずとも「資本への信用」も同じではないか。。

 

以前「夜中に強い喘息発作が出て、病院に走った」ときに、「時間外」の医師が言った。

「私は呼吸器外科」だから「呼吸器内科」の先生に見てもらいなさい。。

そのとき、なぜ「強い発作が出た」か、「どうすべきか」は「自分ながらにわかっていた」から「ホントはこうして欲しくて来た」というのがあったけど、

「とりあえず院内でおさまるまで寝ときなさい!」といわれたので、、

そうしたけれど、、

 

「人体」を「まずは総合的にみられない」か、「責任を逃れたいのか」わからないけれど、、

「医師」なんてこの程度か。。と思ったけれど、「医師にもよる」とも当然ながらわかっている。。

 

そもそも「CTだのMRだの」と出回ったのは、40年ぐらい前あたりからではないだろうか?

 

わたしが「子どもの頃にかかっていた医師」は、「触診や聴診」などで「クスリをくれた時代であり、「レントゲン」すら滅多に撮ることはなかったから、わたしが「中学生」ぐらいから「レントゲン」は当たり前になって、「器械による診断」をするようになって、「むかしの医師は、器械なんかに頼らずだったのに、、」と、「少々最近の医師は、自分で診察して診断できないのか」と「医師も能力がないのか。。」と思っていたけれど、これも時代の変化の中でのことだった。。

 

ようするに、「言語と言葉の仕組み」つまり「言語の定義と並び方」に振り回されているから「外科はわかるが、内科は専門外」なんていえるのだろう。。

 

どこまで「不要な単語や修飾語」などを「削ぎ落として」明確でより正確な言語を使うかということは、、

 

「智慧を生むためには重要である」ということを「ここに記述しておきたい」と思うのである。

 

「智慧」の「慧」は、文字の構造上「上部は雑草」「中心は[手]ではらう」「下段は心」を表していると「学んだ」が、

これは「雑草のないピュア」な心で「観ること」を表している。。

 

「智慧」という思考は「より以上に[不純物]をはらい除けて得られる智ということなのである。

 

日本語は「言語における[不純物]が多い」から、とくに注意が必要であるといえるだろう‼️

 

「論を立てて思考すること」のない「言語における不純物」は「ゴマカシを生み出す」といえるだろう‼️