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2019-12-03 01:07:00

広略相入について、ディベート‼️

「ある学派とのディベート❗️」

 

広略相入の釈について。

 

注)仏を讃嘆することについて、、

・広く「教えを説く」讃嘆。

・略して「称名」という方法で「讃嘆」するという「広略の讃嘆」があり、

それぞれが「どのポイントで成立するか」という「ディベート」です!

 

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教行証文類の構造から見ると、第十七願文を「ことごとく咨嗟して」「わが名を称せずは」と読む以上は、

「咨嗟」「称我名」と「広、略」を分けて読んでいます。

 

ある学派では「咨嗟称」と「我名」に分けて「咨嗟称」を「咨嗟する称」と「名」を立てて「大行名号」としているようですが、

 

ここで「咨嗟して」を「我名」を「称名すること」として読む、、

これは「咨嗟して」=「我名」=「称せずは」を「同じ略讃」として定義しているようです。

 

しかしこれは「名号大行論」をたてるための「会通読み」であり、「無理」があります。

 

「行文類」で大行を「無碍光如来」(広)の「名」(略)とされている時点で、「阿弥陀如来」を「広略相入」しているからです。

そのうえでの「称するなり」であるため、

 

「大行」は「名号でも称名でもなく」。。「讃嘆門すべて」であると「師の和上は解釈されている」と伺っています。

 

その前提が「教文類」の「無量寿経」という、「釈尊の讃嘆」になるのです。

「釈尊が教文類で、[讃嘆]されているように、大行は[無碍光如来の名を称する](広略讃嘆)である」という構造です。

 

それが「法蔵菩薩の行」である「五念門」であるという構造なのです。

 

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いずれにせよ、このような「重箱隅」をつつかずとも、「広がなければ、大会衆の果」はない。

といえます。

また、「典拠依存」すると、「そもそも論」に没して、、

「そもそも大乗仏教非仏説」になりますから、、

「法印に依る」という姿勢から親鸞は著述を記述しており、法印から論を読むことが「大前提」だといえます。

 

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「修多羅に依る」を「経典に依る」と読むのではなく、、

あえてなぜ「経典」ではなく「修多羅」なのか。。

という観点から見ると、「仏説」に依ると理解した方が、

 

教行証文類に「無常、無我」が頻出していて、「因が果に現れる《証》」を「真如」にされている「意味が理解」できるといえます。

仏教学的理解

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広略相入 (こうりゃくそうにゅう)

 一一の事象が差別的に広く示されている広門と、その差別的なものをつらぬく平等の理を示す略門とが、互いにとけあい通じあっていること。世親の浄土論には、極楽のさまざまのうるわしい事象が、かたちのない真如の理と一体となって互いにおさめあっていることを論じ、曇鸞はこれを解釈して広略の不一不二であることを説く。(仏教学辞典)

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浄土論註

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広略相入を明かす(難しいかもしれませんが、本来です!)

 

〈略して入一法句を説くがゆゑに〉(浄土論)とのたまへり。上の国土の荘厳十七句と、如来の荘厳八句と、菩薩の荘厳四句とを広とす。入一法句は略とす。なんがゆゑぞ広略相入を示現するとならば、諸仏菩薩に二種の法身あり。

 

一つには法性法身、二つには方便法身なり。法性法身によりて方便法身を生ず。方便法身によりて法性法身を出す。この二の法身は異にして分つべからず。一にして同じかるべからず。このゆゑに広略相入して、統ぬるに法の名をもつてす。菩薩、もし広略相入を知らざれば、すなはち自利利他するにあたはず。

 

〈一法句とは、いはく清浄句なり。清浄句とは、いはく真実の智慧、無為法身なるがゆゑに〉(浄土論)とのたまへり。この三句は展転してあひ入る。なんの義によりてかこれを名づけて法とする、清浄をもつてのゆゑに。なんの義によりてか名づけて清浄とする、真実の智慧無為法身をもつてのゆゑなり。

 

真実の智慧は実相の智慧なり。実相は無相なるがゆゑに、真智は無知なり。無為法身は法性身なり。法性寂滅なるがゆゑに法身は無相なり。無相のゆゑによく相ならざることなし。このゆゑに相好荘厳すなはち法身なり。無知のゆゑによく知らざることなし。このゆゑに一切種智すなはち真実の智慧なり。真実をもつてして智慧に目づくることは、智慧は作にあらず非作にあらざることを明かすなり。無為をもつてして法身を樹つることは、法身は色にあらず非色にあらざることを明かすなり。非にあらざれば、あに非のよく是なるにあらざらんや。けだし非なき、これを是といふなり。おのづから是にして、

また是にあらざることを待つことなきなり。是にあらず非にあらず、百非の喩へざるところなり。このゆゑに清浄句といへり。清浄句とは、いはく真実の智慧無為法身なり。

 

〈この清浄に二種あり、知るべし〉といへり。上の転入句のなかに、一法に通じて清浄に入る。清浄に通じて法身に入る。いままさに清浄を別ちて二種を出すがゆゑなり。ゆゑに知るべしといへり。

 

〈なんらか二種、一つには器世間清浄、二つには衆生世間清浄なり。器世間清浄とは、向に説くがごときの十七種の荘厳仏土功徳成就、これを器世間清浄と名づく。衆生世間清浄とは、向に説くがごときの八種の荘厳仏功徳成就と、四種の荘厳菩薩功徳成就と、これを衆生世間清浄と名づく。かくのごときの一法句に二種の清浄の義を摂すと、知るべし〉(浄土論)とのたまへり。

 

それ衆生は別報の体とす。国土は共報の用とす。体用一ならず。このゆゑに知るべし。しかるに諸法は心をして無余の境界を成ず。衆生および器、また異にして一ならざることを得ず。すなはち義をして分つに異ならず。同じく清浄なり。

器は用なり。いはくかの浄土は、これかの清浄の衆生の受用するところなるがゆゑに、名づけて器とす。浄食に不浄の器を用ゐれば、器不浄なるをもつてのゆゑに、食また不浄なり。不浄の食に浄器を用ゐれば、食不浄なるがゆゑに、器また不浄なるがごとし。かならず二つともに潔くして、いまし浄と称することを得しむ。ここをもつて一つの清浄の名、かならず二種を摂す。

 

問うていはく、衆生清浄といへるは、すなはちこれ仏と菩薩となり。かのもろもろの人・天、この清浄の数に入ることを得んや、いなやと。

 

答へていはく、清浄と名づくることを得るは、実の清浄にあらず。たとへば出家の聖人は、煩悩の賊を殺すをもつてのゆゑに名づけて比丘とす、凡夫の出家のものをまた比丘と名づくるがごとし。また灌頂王子初生のとき、三十二相を具して、すなはち七宝のために属せらる。いまだ転輪王の事をなすことあたはずといへども、また転輪王と名づくるがごとし。それかならず転輪王たるべきをもつてのゆゑに。かのもろもろの人・天もまたまたかくのごとし。みな大乗正定の聚に入りて、畢竟じてまさに清浄法身を得べし。まさに得べきをもつてのゆゑに、清浄と名づくることを得るなりと。

 

〈善巧摂化〉

善巧摂化とは、〈かくのごときの菩薩は、奢摩他・毘婆舎那、広略修行成就して柔軟心なり〉(浄土論)とのたまへり。〈柔軟心〉とは、いはく広略の止観、相順して修行して、不二の心を成ぜるなり。たとへば水をもつて影を取るに、清と静とあひ資けて成就するがごとしとなり。

 

〈実のごとく広略の諸法を知る〉(浄土論)とのたまへり。〈如実知〉といふは、実相のごとくして知るなり。広のなかの二十九句、略のなかの一句、実相にあらざることなきなり。

 

〈かくのごとき巧方便回向を成就したまへり〉(浄土論)とのたまへり。

〈かくのごとき〉といふは、前後の広略みな実相なるがごときなり。実相を知るをもつてのゆゑに、すなはち三界の衆生の虚妄の相を知るなり。衆生の虚妄を知れば、すなはち真実の慈悲を生ずるなり。真実の法身を知るは、すなはち真実の帰依を起すなり。慈悲と帰依と巧方便とは、下にあり。

 

〈なにものか菩薩の巧方便回向。菩薩の巧方便回向とは、いはく、礼拝等の五種の修行を説く、所集の一切の功徳善根は、自身住持の楽を求めず。一切衆生の苦を抜かんと欲すがゆゑに、作願して一切衆生を摂取して、ともに同じくかの安楽仏国に生ぜしむ。これを菩薩の巧方便回向成就と名づく〉(浄土論)

とのたまへり。

王舎城所説の『無量寿経』を案ずるに、三輩生のなかに、行に優劣ありといへども、みな無上菩提の心を発せざるはなけん。この無上菩提心は、すなはちこれ願作仏心なり。願作仏心は、すなはちこれ度衆生心なり。度衆生心は、すなはちこれ衆生を摂取して有仏の国土に生ぜしむる心なり。このゆゑに、かの安楽浄土に生ぜんと願ずるものは、かならず無上菩提心を発するなり。もし人、無上菩提心を発せずして、ただかの国土の受楽無間なるを聞きて、楽のためのゆゑに生ぜんと願ずるは、またまさに往生を得ざるべきなり。

 

このゆゑに、〈自身住持の楽を求めず、一切衆生の苦を抜かんと欲すがゆゑに〉とのたまへり。〈住持楽〉とは、いはく、かの安楽浄土は、阿弥陀如来の本願力のために住持せられて、楽を受くること間なきなり。おほよそ〈回向〉の名義を釈せば、いはく、おのれが所集の一切の功徳をもつて、一切衆生に施与して、ともに仏道に向かへしめたまふなりと。〈巧方便〉とは、いはく、菩薩願ずらく、〈おのれが智慧の火をもつて一切衆生の煩悩の草木を焼かんと、もし一衆生として成仏せざることあらば、われ仏に成らじ〉と。

 

しかるに衆生いまだことごとく成仏せざるに、菩薩すでにみづから成仏せんは、たとへば火㮇して、一切の草木を擿(擿の字、排ひ除くなり)んで焼きて尽さしめんと欲するに、草木いまだ尽きざるに、火㮇すでに尽きんがごとし。その身を後にして身を先にするをもつてのゆゑに、巧方便と名づく。このなかに〈方便〉といふは、いはく作願して一切衆生を摂取して、ともに同じくかの安楽仏国に生ぜしむ。かの仏国はすなはちこれ畢竟成仏の道路、無上の方便なり。

 

〈菩提心の義〉

障菩提門とは、〈菩薩かくのごとくよく回向成就したまへるを知れば、すなはちよく三種の菩提門相違の法を遠離するなり。なんらか三種。

一つには智慧門によりて、自楽を求めず、わが心自身に貪着するを遠離せるがゆゑに〉(浄土論)とのたまへり。進むを知りて退くを守るを〈智〉といふ。空無我を知るを〈慧〉といふ。智によるがゆゑに自楽を求めず、慧によるがゆゑにわが心自身に貪着するを遠離せり。

 

〈二つには慈悲門によれり。一切衆生の苦を抜いて、無安衆生心を遠離せるがゆゑに〉(浄土論)とのたまへり。苦を抜くを〈慈〉といふ。楽を与ふるを〈悲〉といふ。慈によるがゆゑに一切衆生の苦を抜く。悲によるがゆゑに無安衆生心を遠離せり。

 

〈三つには方便門によれり。一切衆生を憐愍したまふ心なり。自身を供養し恭敬する心を遠離せるがゆゑに〉(浄土論)とのたまへり。正直を〈方〉といふ。おのれを外にするを〈便〉といふ。正直によるがゆゑに一切衆生を憐愍する心を生ず。おのれを外にするによるがゆゑに自身を供養し恭敬する心を遠離せり。〈これを三種の菩提門相違の法を遠離すと名づく〉(浄土論)と。

 

順菩提門とは、〈菩薩はかくのごとき三種の菩提門相違の法を遠離して、三種の随順菩提門の法、満足することを得たまへるがゆゑに。なんらか三種。一つには無染清浄心。自身のためにもろもろの楽を求めざるをもつてのゆゑに〉(浄土論)とのたまへり。菩提はこれ無染清浄の処なり。もし身のために楽を求めば、すなはち菩提に違しなん。このゆゑに無染清浄心は、これ菩提門に順ずるなり。

 

〈二つには安清浄心。一切衆生の苦を抜くをもつてのゆゑに〉(浄土論)とのたまへり。菩提はこれ一切衆生を安穏する清浄の処なり。もし作心して一切衆生を抜きて生死の苦を離れしめずは、すなはち菩提に違しなん。このゆゑに一切衆生の苦を抜くは、これ菩提門に順ずるなりと。

 

〈三つには楽清浄心。一切衆生をして大菩提を得しむるをもつてのゆゑに、衆生を摂取してかの国土に生ぜしむるをもつてのゆゑに〉(浄土論)とのたまへり。菩提はこれ畢竟常楽の処なり。もし一切衆生をして畢竟常楽を得しめずは、すなはち菩提に違しなん。この畢竟常楽はなにによりてか得る、大乗門によるなり。大乗門とは、いはくかの安楽仏国土これなり。このゆゑにまた〈衆生を摂取してかの国土に生ぜしむるをもつてのゆゑに〉(浄土論)とのたまへり。〈これを三種の随順菩提門の法、満足せりと名づくと、知るべし〉(浄土論)と。

 

〈名義摂対〉とは、〈向に智慧・慈悲・方便の三種の門は般若を摂取す。般若方便を摂取すと説きつ、知るべし〉(浄土論)とのたまへり。

〈般若〉とは如に達するの慧の名なり。〈方便〉とは権に通ずるの智の称なり。如に達すればすなはち心行寂滅なり。権に通ずれば、すなはちつぶさに衆機に省く。機に省くの智、つぶさに応じて無知なり。寂滅の慧、また無知にしてつぶさに省く。

 

しかればすなはち智慧と方便と、あひ縁じて動じ、あひ縁じて静なり。

動、静を失せざることは、智慧の功なり。静、動を廃せざることは方便の力なり。このゆゑに智慧と慈悲と方便と、般若を摂取す。般若、方便を摂取す。

 

〈知るべし〉とは、いはく、智慧と方便はこれ菩薩の父母なり。もし智慧と方便とによらずは、菩薩の法則成就せざることを知るべし。なにをもつてのゆゑに。もし智慧なくして衆生のためにするときには、すなはち顛倒に堕せん。もし方便なくして法性を観ずるときには、すなはち実際を証せん。このゆゑに知るべしと。

 

〈向に遠離我心貪着自身・遠離無安衆生心・遠離供養恭敬自身心を説きつ。この三種の法は、障菩提心を遠離するなりと、知るべし〉(浄土論)とのたまへり。諸法におのおの障碍の相あり。風はよく静を障ふ。土はよく水を障ふ。湿はよく火を障ふ。五黒・十悪は人・天を障ふ。四顛倒は声聞の果を障ふるがごとし。このなかの三種は菩提を障ふる心を遠離せずと。〈知るべし〉とは、もし無障を得んと欲はば、まさにこの三種の障碍を遠離すべきなり。

 

〈向に無染清浄心・安清浄心・楽清浄心を説きつ。この三種の心は略して一処にして、妙楽勝真心を成就したまへりと、知るべし〉(浄土論)とのたまへり。

楽に三種あり。一つには外楽、いはく五識所生の楽なり。二つには内楽、いはく初禅・二禅・三禅の意識所生の楽なり。三つには法楽楽、いはく智慧所生の楽なり。この智慧所生の楽は、仏の功徳を愛するより起れり。これは遠離我心と遠離無安衆生心と遠離自供養心と、この三種の心、清浄に増進して、略して妙楽勝真心とす。妙の言はそれ好なり。この楽は仏を縁じて生ずるをもつてのゆゑに。勝の言は三界のうちの楽に勝出せり。真の言は虚偽ならず、顛倒せざるなり。