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2019-12-13 01:02:00
現代人の理解力は「上品」といえるのかもしれない‼️
浄土宗において「上品の者」と定義される「無生の生」が、教行証文類の「法蔵菩薩の仏道」であり、そういう意味では、「ものごとの理解」という意味では、「現代人は「上品の者」といえるかもしれない‼️
ーーー以下引用
[往生の語義概念について]
曇鸞は『往生論註』下において、生に対する執着を捨て、往生とは無生の生であると知って往生する無生而生往生(上品の者)と、
願往生を執着として否定せず、法性無生の理を知らずとも名号を称え往生すれば自然に無生を体得する見生無生往生(下品の者)を説いている。
道綽は『安楽集』第一大門において極楽浄土の三界の摂と不摂について「浄土は勝妙にして、体、世間を出でたり。この三界は、すなわちこれ生死凡夫の闇宅なり。…この故に浄土は三界の摂にあらず」(浄全一・六七九下)
と述べ三界不摂を明らかにし、第七大門においては浄土が有相であることについて「故にこれ相を取るといえども、まさに執縛とすべきにあらず。
またかの浄土にいう所の相とは、すなわちこれ無漏の相、実相の相なり」(浄全一・七〇三下)と述べている。
これらは浄土往生が三界を超過し無漏の境界に入るものであり、正しく生死解脱であることを明らかにするものである。
善導は『観経疏』において、世親の『往生論』を引用して勝過三界を明らかにし、極楽浄土については「皆これ弥陀浄国の無漏真実の勝相なり」(聖典二・一六四/浄全二・二下)、「西方は寂静無為の楽なり。畢竟逍遥ひっきょうしょうようとして有無を離れたり」(聖典二・二四八/浄全二・三八上)と述べ、『法事讃』においては「涅槃城に入らしむ」(浄全四・二上)、「極楽浄土は無為涅槃界なり」(浄全四・二一上)と述べている。これらは、有相である極楽浄土への往生が無漏真実・無為涅槃界の境界に入ることを示すものである。
法然は『無量寿経釈』において「往生浄土の法門は、いまだ煩悩の迷を断ぜずといえども、弥陀の願力によりて極楽に生ずる者は、永く三界を離れて、六道生死を出いず。故に知りぬ。往生浄土の法門は、これいまだ惑を断ぜず三界を出過するの法なり」(昭法全六八)と述べ、
煩悩の迷いを断つことができない凡夫であっても、阿弥陀仏の本願力によって浄土往生した者は、三界を離れ六道輪廻から解脱することを明らかにし、
往生浄土の法門が惑を断ぜずに三界を出過する法であるとしている。また『要義問答』において「往生浄土門というはまず浄土へ生まれて彼にて悟をも開き、仏にも成らんと思うなり」(聖典四・三七八~九/昭法全六一五)
と説いているように、法然は浄土に生まれることを往生とし、往生浄土の後に悟りを目指すことを明らかにしている。
すなわち『逆修説法』二七にしち日において「いま浄土宗の菩提心とは、まず浄土に往生して、一切衆生を度し、一切の煩悩を断じ、一切の法門を悟り、無上菩提を証せんと欲するの心なり」(昭法全二四〇)
と説かれるように、往生の後に菩提心を起こして悟りを目指すのであるから、浄土宗では往生と成仏を同義には捉えない。
さらに『選択集』三において「乃至一念至心に回向して、彼の国に生ぜんと願ずれば、すなわち往生を得て不退転に住すと云えるこれなり」(聖典三・一二一/昭法全三二一)と説かれるように、浄土往生は不退転位に入ることである。
なお、往生の業成就については「往生の業成就は、臨終平生に渡るべし。本願の文簡別けんべつせざる故なり」(聖典六・二八一/昭法全四九四)と述べ、業事成弁は臨終平生にわたるとしている。
聖冏は『釈浄土二蔵義』一一の中で往生について「見生の当体を改めざるの凡夫、覚らずして無生の本際に転入す」(浄全一二・一二六上)と述べ、執着のある凡夫であっても悟らずに無生の境界に入ることを明らかにしている。
これは阿弥陀仏の救済が、執着を断ぜずとも執着を超えさせることを示したものである。
また「もし実義に約せば往生と言うはこれすなわち無生なり、見生の当体すなわちこれ無生なり、無生にしてしかも生なればすなわちこれ往生なり、往生無生はすなわちこれ無生なり、理事縦横即相不退なり。ただ【我が真宗】(浄土宗)のみ事理ともに頓なり」(浄全一二・一二七下)と述べ、
浄土宗の優位性を示している。さらに『法事讃』上の「浄土の無生また別なし、究竟の解脱金剛身なり」(浄全四・九下)の一文について、「もしこの意を解せば、あるいは現世に無生を証し、あるいは即身に往生を得ん、いかに況んや順次の得脱をや」(浄全一二・三四八上)と解し、現世証得としている。
[西山派の説く往生]
証空は、即便往生と当得往生の二つを立てている。
『観経定善義他筆抄』上において「此世とは即便往生を云い、後世とは当得往生を云う。証得往生を即便と云い、当得は来迎なり」(西叢六・九上)
と述べているように、即便往生とは平生において領解の三心をもって念仏を称えれば、仏の来迎を得て往生を証得する現益のことをいい、
当得往生とは臨終に聖衆の来迎を受け穢土より浄土に往生する当益のことをいう。
[浄土宗大辞典]