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2020-01-14 01:06:00

阿弥陀如来も「無我」である‼️

「阿弥陀如来」も「無我」である。

教行証文類の「行文類」には「無生を得る」「無常を離れる」といった、

 

根本仏教の「法印」に「相応する」部分が多く、

「行文類など」には「仏教と相応する」という文言が使われています。

 

これは「念仏者が仏教と相応する」というより「念仏の教えは仏教と相応する」という意味に使っています。

 

「阿弥陀如来」を実在とし、しかも「以前の堺の和上」のように「往生の主体は《わたし》という以外にない」といった「自我往生説」を「宗乗」とし、

 

「仏教学」を「余乗」とそしり、「宗乗」は別の道(別途)であるという、、

 

「現代一般人」には??

 

となってしまうような「自己投影(わたし)の阿弥陀如来」を実体とし、、

 

「浄土」さえも「わたしのイメージを実体化した《浄土》」とする「教義理解」は、、

 

景教の影響(中国へ渡ったキリスト教の東方教会)そのものといえます。

 

日本の歴史研究でも「隠れキリシタンが真宗に多く入っていた」というものがありますが、、

 

これは、中国の「道綽、善導」あたりに端を発しているようです❗️

 

【武田勧学】の資料にある[法無我]は、仏教において重要な原点であり、

仏教である以上「三法印、四法印」なくては意味がありません❗️