インフォメーション(日々更新中)

2020-01-21 03:42:00

末法と黙示録は「始まり」を教えていた‼️

人間が「障がい」と名付けている「同じ人間」がいる。

また、障がいでなくとも「能力が劣っている」と思っている人もいる。

 

こういうひとを「生命対生命」として「助けること」が、

人間種に自然(仏界や God)が与えた義務である。

 

自分がどちらに該当するのかは、常に入れ替わっている。

そもそも自我は、勘違い以外に存在しないから、

 

《自他の別はない》

 

だから、助ける行為が助かる行為であり[因果同時]である。

 

ここで各個体が共に感じ合う感動意外に歓喜はない。

いわゆる「幸福」は、この状態にのみ存在しうる。

 

つまりは「和合や友愛」が成立することにのみ「歓喜と幸福感」があり、

それこそが「人間が存在しうる理由」である。

 

これは「対人間」のみではない。

 

自然界のあらゆる有機的存在との「融和」において感じうる「歓喜と幸福感」である。

 

人間種のDNAはそのためにある。

「経典やHolyバイブル」は、それを教えているのに、、

 

そもそも人間がここまで愚かになるまで「明確にそこを理解する段階には至らない」という前提が「経典やHolyバイブル」には暗示されていたのかもしれない。

 

「末法」「黙示録」という教えが、示していたのは「終末」ではなく、、

ほんとうの人間になる「始まり」を示していたといえるだろう‼️