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2020-02-04 02:48:00

生きるために生きる‼️

人間の精神について。

英語で「精神的な」を意味することばが「Spiritual」です。

 

人間の精神はなぜ「愛や慈悲」を与えたり求めようとするのか?

宇宙に「人格的意思はない」としても、

「なぜ驚くようなシステム」をもって存在し、

そこに「愛や慈悲を生きようとする人間」がいるのか。

 

現代の若者が「愛や慈悲」を求めていないように見えるけれど、

なぜ「寂しさや孤独感」に苛まれるのか。

 

「無知無明」が「人間」を含めて、「愛や慈悲」のシステムを破壊してきた背景で、宇宙的叡智といってもいい「智慧と知性がひとを救うスピリット」を育ててきたのはなぜか?

 

「有機物で作られた陶器や木工品」「アートや科学的発見」などが、

「無機質な樹脂の入れ物や家具」「失われた感性やひらめき」などに囲まれるようになって、そういった能力を人間が失いつつあるようで、

 

じつは「そういった有機的物質にぬくもりを感じようとしている」スピリットが精神の深いところでは求めているのはなぜか?

 

わたしたち人間は、「GodやBuddha」を存在として知る必要はなく、

「人間のこころやスピリチュアルを満足させる法則」として探究し、

その得たところを「愛や慈悲」として施すことに、

《宇宙の有機的かつ叡智》を生きるという最高の領域があると知るべきであろう。

 

高次元な宗教は「身近でありかつ全宇宙的な《知性と慈愛の根源》を等しく教えている」のであるから、セクトを超えてその根源の部分から協力し合う時代である。

 

ーーー

 

愛別離苦は、愛別離悲といえる。

苦というよりも情的であろう。

 

人間でなくとも「哺乳類」は「泣く」という。。

「苦」は「知性」によって解決できることも多い。

「悲」は「情的」であるから「インパクト強く残り引きづる」といえるだろう。

 

案ずるに、人間種の「苦」に「知性により解決可能な苦」と「情的な苦」そして「知と情が絡んだ《悲》」があるといえよう。

 

この「悲」をサンスクリット語では「カルナー(うめき)」という。

そしてこの呻き(うめき)を埋めるのは「慈」(マイトリー=親友)とされている。

 

「親友」には「パワーバランス」がない。

また「見返りを求めること」もない。

 

《無条件の摂取不捨である》

《そこには「和合」のみある》

 

「和合」は「わかりあい、受け止め合う」まさに「無色無形絶言」の関係である。(色も形もなくことばも絶えてあらわすこともできない関係性)

 

「愛別離悲」いわんや「生老病死の悲」を埋める「慈悲」をもって関わることができる「和合関係を広めるもの」になることこそ、「大乗菩薩道の行者」である。

 

ここにおいて「怨憎会、求不得、五蘊盛の苦」については、内容によって「悲」とはいいがたいものもあると思えるけれど。。

「心の奥には《悲》がある」といえるだろう‼️

 

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人間の精神について。

英語で「精神的な」を意味することばが「Spiritual」です。

 

人間の精神はなぜ「愛や慈悲」を与えたり求めようとするのか?

宇宙に「人格的意思はない」としても、

「なぜ驚くようなシステム」をもって存在し、

そこに「愛や慈悲を生きようとする人間」がいるのか。

 

現代の若者が「愛や慈悲」を求めていないように見えるけれど、

なぜ「寂しさや孤独感」に苛まれるのか。

 

「無知無明」が「人間」を含めて、「愛や慈悲」のシステムを破壊してきた背景で、宇宙的叡智といってもいい「智慧と知性がひとを救うスピリット」を育ててきたのはなぜか?

 

「有機物で作られた陶器や木工品」「アートや科学的発見」などが、

「無機質な樹脂の入れ物や家具」「失われた感性やひらめき」などに囲まれるようになって、そういった能力を人間が失いつつあるようで、

 

じつは「そういった有機的物質にぬくもりを感じようとしている」スピリットが精神の深いところでは求めているのはなぜか?

 

わたしたち人間は、「GodやBuddha」を存在として知る必要はなく、

「人間のこころやスピリチュアルを満足させる法則」として探究し、

その得たところを「愛や慈悲」として施すことに、

《宇宙の有機的かつ叡智》を生きるという最高の領域があると知るべきであろう。

 

高次元な宗教は「身近でありかつ全宇宙的な《知性と慈愛の根源》を等しく教えている」のであるから、セクトを超えてその根源の部分から協力し合う時代である。

 

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人間が「障がい」と名付けている「同じ人間」がいる。

また、障がいでなくとも「能力が劣っている」と思っている人もいる。

 

こういうひとを「生命対生命」として「助けること」が、

人間種に自然(仏界や God)が与えた義務である。

 

自分がどちらに該当するのかは、常に入れ替わっている。

そもそも自我は、勘違い以外に存在しないから、

 

《自他の別はない》

 

だから、助ける行為が助かる行為であり[因果同時]である。

 

ここで各個体が共に感じ合う感動意外に歓喜はない。

いわゆる「幸福」は、この状態にのみ存在しうる。

 

つまりは「和合や友愛」が成立することにのみ「歓喜と幸福感」があり、

それこそが「人間が存在しうる理由」である。

 

これは「対人間」のみではない。

 

自然界のあらゆる有機的存在との「融和」において感じうる「歓喜と幸福感」である。

 

人間種のDNAはそのためにある。

「経典やHolyバイブル」は、それを教えているのに、、

 

そもそも人間がここまで愚かになるまで「明確にそこを理解する段階には至らない」という前提が「経典やHolyバイブル」には暗示されていたのかもしれない。

 

「末法」「黙示録」という教えが、示していたのは「終末」ではなく、、

ほんとうの人間になる「始まり」を示していたといえるだろう‼️