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2020-02-10 21:22:00

「我の強い」他我依存苦‼️

【他我依存苦】

 

「我が強い」は「他が強い」ということであるといえよう。

 

「我の強いひと」は「なんらかの他」に「任せる」のではなく「依存」しているといえる。

 

「依存」と「任す」の違いは、、

「我を守るために依存に安心感を得る」か「そもそも無我(非我 )であるから、自我を放棄する(屈服)」という「大きな違い」がある。

 

「〇〇先生のファン」という場合、その「〇〇先生の我」が依存をさせている可能性がある。

 

和上でも教授でも布教使でも「〇〇先生のファン」という場合、2パターンある。

 

ひとつは「その〇〇先生崇拝以上にならない」「〇〇先生を真似ようとする」「その先生の世界観を生きようとする」というケースである。

(教祖や占い師に見られるようなあり方である)

 

二つ目は「〇〇先生の《言われる》ように生きて、発信しようとする」、

また「〇〇先生の生き方に学んで、自我ではなく自己(自己の分限を智慧と慈悲に生きる)という独立者になる」「それぞれの世界観を大事にする」というケースである。

 

以前は「金魚のフンのようなファン」を作る先生は少なかった。

しかし、平成あたりから「そういう先生」が増えてきた。

 

前者のように「金魚のフンのようなファンを作らない先生」には「卒業」がある。「師」からの自立が訪れる。

 

後者のように「金魚のフンのようなファンを作る先生」には「卒業がないから、師に依存したまま離れられない」のである。

「先生が弟子に依存して、自己実現している」からである。

 

これは「カウンセリング」でも同じであって「カウンセラーから卒業できないようでは困る」というのが、ホンモノのカウンセリングであり、

 

いつまでも通い続けるカウンセリングは「教祖」への依存でしかないし、「教祖が弟子に依存している」ようなものである。

 

あなたが「〇〇如来」や「〇〇神」を信じているとして、、

 

「その〇〇如来や神」からの卒業があって、《広大世界に一体感》を感じて「智慧と慈悲や愛」という「歓喜」を生きられたら、それこそが「ホンモノの精神世界」である。

 

今後はこの「ホンモノ」を求めるひとを増やすようにしなければ《依存苦》を生きるひとを増やすだけになる。

 

「他の我」に救いを求めて「返って苦に落ち込んでいくひと」が増えるであろう❗️

 

そもそも「仏教」は「自らを灯火とし、法を灯火とする」「中道の教え」であるから、、

仏教には「絶対的な如来」はいない。

 

論でいえば「絶対」という状態には「自他の相対があっては矛盾になる」のであり「すべてがイチであるから、イチがすべてである」という「相対を超えなければ絶対にはならない」のである。

 

もとい「我が強い」のではない「他への依存が強い先生」と、その先生の話しをファンのように聞く「弟子という他への依存が強い生徒」との《共依存》の中で「卒業(出門)」のない「苦にハマって、出られないまま」聴聞聴聞と走っているひとが居る」ことをよく感じる❗️

 

「他我依存の苦」である。

 

「聴聞聴聞」と走ることを「素晴らしいこと」と見ていられない。

 

智慧も慈悲もなく「歓喜も和合もないまま」聴聞への逃避行をしているようにしか観えない。

 

《現実逃避聴聞》は危険であることを知るべきである。

これが「親鸞は弟子一人もない」の意味である‼️