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2020-02-21 03:55:00
宗教のM&A‼️
遡っても、シルクロードの時代から「貿易や文化交流」はあった。
いまでは「当然のこと」であり「技術交流」もある。
また「M & A」もあり、多くの分野では垣根を超えて交流がある。
いわずもがな、「シークレット」について、それはそれであるだろう。
しかし最も「交流されない」のが宗教である。
日本では「会話にすら出てこない」のは、宗教の垣根が高いからではないのだろうか?
それは「宗教団体に所属していない一般人にも及ぶ」といえる。
日本語の用法というお堅いことは置いといて「お寺は敷居が高い」というのも、しきたりや地域による「縄張り」という要素が垣間見えるからかもしれない。
わたしは「布教使」という役目によって「いろんな寺院」に行くけれど、その寺院の檀家さん(門徒さん)の雰囲気は「住職さん」の雰囲気を見ているとよくわかる。
「お堅い住職さんの寺院は檀家(門徒)さんもお堅い雰囲気である」
「柔軟な住職さん寺院は、柔軟な雰囲気がする」というのは、多くの布教使は体験しているであろう。
わたしのような者は「住職さんがウエルカム」な寺院が多いけれど、
何かの間違いでわたしのようなものが「お堅いところへ行く」と二度とご縁はないものである。
「ガードが堅いのはなぜなのだろうか?」
「摂取不捨」の世界観の中にいながら「選取廃捨」されている感がある。
こういった「風潮は日本語における仏は絶対にして軽んずべからず」という「本末転倒した堅さ」がある。
最近は「以前の新宗教団体が礼拝の対象物を持たずにスピリットを変える」というような「絶対者を持たない智慧のセミナーや教育団体」に変化しているところもある。
そういうところは「どんな宗教に入っていても、ウエルカムである」が、いかんせん「宗教団体」は「うちの教えが絶対である」という姿勢を崩さないために、「ちょっと立ち寄ってみようか」とも思えない。
今後は、世界レベルで見ると「宗教のM & Aがあってもおかしくない」と思えるけれど、日本は「小さな世界で収まっているところが多い」と感じる。
それは、さながら鎖国のようでもあり、篤信者は丁寧に扱われて、新参者は混ざりにくい雰囲気に満ちている。
そろそろ「2020年」なのだから「グローバルな交流があってもいい」のではないか、意味不明な「宗教サミット」では、一般人にはなにも届かないし、「パフォーマンス」にしか見えない。
「真宗の僧侶が、キリスト教の牧師さん」に「昔は交流があったから、似通った部分があるようですね」なんていう声をかけて、「交流をすれば和合できるハズ」である。
悪魔崇拝なんていう「フリーメーソン」では、そういう垣根を超えて、それぞれを尊重しながら「友愛」を守っている。
この組織は「多くの日本人は知らないうえ、多くの誤解をしている」からあえて書いているけれど、見習うべき理想像がある。
セクトの壁を越えようではありませんか?
そうしたからといって、「自分の信仰を曲げることにはならない」のですから。。
どの宗教も「神や仏」のためにあるのではなく、「苦しむ人間のためにある」のですから。。