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2020-05-01 01:54:00
寺院崩壊の時‼️
阿弥陀如来の大悲は「親鸞一人がため」の教えである。
この文言は「親鸞自身のものではない」けれど、広く使われていて、
だから「あくまでも信心は個人に帰結するもので、社会問題は関係ない。」といったことをいう布教使が多いけれど、「一即一切、一切即一」の原則や、「無常無我(非我 )空」といった原則が、社会という「ひとの集団」と無関係だと教えているわけではないことは明確で、「和をもって尊しとす」という聖徳太子は、仏教によって国づくりをしようとしたのである。
その聖徳太子を尊敬していた親鸞が「社会と個人は信心において無関係」と考えていたとは思えない。
また本当に「親鸞一人がため」ならば、布教された理由がないし、親鸞にとって布教という行為は成り立たなくなる。
この文言は、「わたしははるか昔から迷い続けていて、このわたしは愚者である」と言うことを意味していて、
ひいてはこのわたしは「無我である」と言うことを「阿弥陀如来」に教えられたということであり、一切の衆生にとっても「ひとりひとりが阿弥陀如来において同じ(無我)である」ということをあらわしていると考えられる。
よく「みんな阿弥陀如来に願われたもの同士」というけれど、「なにを願われているのか?」という意味において、みんなはるか昔から迷い続けている愚者なのだから「慚愧において無我となり、互いに助け合う和合というコミュニティ(社会)を目指すこと」であるといえる。
このコロナにおいて「なぜ社会がこのような状態になって、コロナの後に来ることを予測して方向性を示す」ぐらいのことができなければ、なんの救いにもならない。
また、いまの状態においても「お寺をコロナ被害者に提供する」コロナで住むところを失った「ネット難民」などを受け入れるなど、「具体的にできること」があるはずである。
ただ「法話をネット配信するだけ」というのは、自己満足としか思えない。
いや、「そんなことぐらいしか思いつかないのが僧侶だ」「いざというときなんの知恵もない、あてにもならない」という、さらに「お寺は不要」という思いを社会に実感させることになるという一面があることを知るべきである。
実際わたしの知人数人にYouTubeなどで配信されている法話を紹介したけれど、「このみんなが不安ななかでやっていることが意味不明だ」といわれた。
「法話を聞いたけれど、こんな内容でなんにも救われないし、話しの結論である阿弥陀如来と一緒だとか、阿弥陀さまの慈悲の中にいる喜び、仏にならせていただくなんていう内容がなにをもたらすのか意味不明だ」という反応がほとんどである。
いまこそ「僧侶一人の満足」で終わっていることに目覚めて、具体的に社会貢献をしなければ、コロナの後に来るのは「寺院壊滅」という「法滅」なのかもしれない。