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2020-05-14 18:32:00

媒体布教使。。‼️

浄土真宗の西本願寺では「布教使」と書き、その他の宗派は「布教師」になっています。

あくまでも、阿弥陀さんの「使い」と定義しています。

また、偶像崇拝という文言は「礼拝の対象」であるかどうかというポイントで定義するので、「崇拝」の文言の持つ意味は軽いといえます。

親鸞の教行証文類においては「阿弥陀如来」は「真如(真理)から来生した」(如来の意味)と記述されているものの、

結果「無常無我(非我 )空」を体得するための「善巧方便」とされており、「文字をも知らない人に対しての方便である」「月を指す指」である。

という定義がされているので、礼拝の意味は「真理への屈服」というところに定義されています。

つまり「仏像」に礼拝しているのではなく、「仏像に示される真理への屈服」ということを通して「無常無我(非我 )空」を体得することを「真実心」を得る。

という構造になっていますから、「仏像への礼拝に見えるけど、仏像をシンボルとした、真理への屈服が、真実心を生む」という意味において、

「偶像崇拝」ではない。といえます。

そういう意味で布教「使」は、真理(真如)からの使いとされているのでしょう。

この点を、「媒体」と取る人がいて、「布教使は媒体だから、自分が信じるかどうか、行じるかどうかは関係ない」と言って、

「お礼はしっかりもらう」という欺瞞を堂々と語る人もいます。

わたしは「なにもしない媒体布教使」には疑問を感じています。

ご参考までに!